ひとは到着するために旅するのではなく、旅するために旅する /* ゲーテ */
カロリーネは、「ゲーテが、あるとき、さりげなく『ひとは到着するために旅するのではなく、旅するために旅するのだ』と言いました。」
ゲーテの友人の手紙
ふと、旅という言葉を聞いて、一時期流行った、自分探しの旅に出る若者たちのことを思い出した。
彼らに対する世間の目は、大概厳しいものだったかと記憶している。
詰らんとする人々が盾に取った論理はこうだ。「本当の自分なんて外国に居るわけが無いのだから、それを探すことなんて無意味」
まあ、その批判は理解できる。本当の自分はここには存在せず、ここではないどこかに居るのだという考え方はある意味で逃避的であり、非難を受けてもしょうがないのかもしれない。
けれども僕は、自分探しの旅というのは、とても大事なことだと思っている。
どこかに本当の自分が転がっている、なんていうことは、きっとない。
けれども本当の自分という概念を、自分が成りたい自分と定義したとしたら、どうだろう。それは拾いあげるものではなく、考え、作り上げるものに違いない。
旅をしたところでもう一人の自分を見つけることはないだろう。
けれども旅の中で自分を思考し、自分を想像し、自分を夢想することは、恐らくもう一人の自分に、本当の自分に自分が成ることの、契機になるだろう。
自分探しの旅。到達点が在るようで、きっとない。
旅そのものが、その旅の目的となるのだろう。
成りたい自分に成れなかった人たちが、成りたい自分に成ろうとする人の足を掴む。そこには穴があるぞと、そこには道がないぞと、穴の中から、道を外れた所から、呻きを上げる。
大人になれば警句の一つも言いたくなるものだ。
けれどもどうせ言うなら、もっと格好よく句の一つも投げてみたい。
それこそ旅の途中に、グラスでも片手に持ちながら。
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