見出し画像

あなたは一枚の絵画の前にいます


どうですか?

その絵はアナタの心を打ちましたか?

切なく見えますか?

楽しそうですか?


美術館に飾られていますか?

家にあるの?

ライトに照らされてますか?

陽光で褪せてるかな?


ねぇ。


その絵がどう見えるかってことは

アナタがどう見てるかってこと。


アナタならば

赤い絵の具を足してみたい?

額縁は緑より黄色?

目の前にソファーを用意したりする?

小鳥の囀りも必要かしら?


その絵を彩るのは

確かな気持ち。

想う心。



アナタが一枚の絵画を心を込めて描いたなら

その心が見る誰かの心を動かすかもしれない。



『かもしれない』という可能性に手を伸ばして

『かもしれない』という絶望に負けたりして

アナタは一枚の絵画の前にいます。


見てますか?

描いてる?


どちらのアナタも

どうか見失わないで。

世界はどこまでもどこまでも

広がりながら

自分に流れていることを。



↑↑↑
これは2013年。
10年前の12月の私の言葉。
私は今、絵画を見ることをお休みしているし、描くこともお休みしている。
なんなら少し汚して、破いて、だらけている。
それでいい。今年はそういう年でもあったな。
2013年は長かったんだよなぁ。
とても、とても長くて。
そして2014年は透き通る一年になると思ったようです元旦に。
今年は早かったけど、でもなんかだらーんとしてた。2013年に少し似てて、でも違うなって2013年の文を読み思う。
書き記す事は、過去の私から、未来の私へ続く。 
さぁ2024年はどうかな…
もう一つ。
10年前の私の言葉を載せます。
↓↓↓


題名『誰かに押し付けて泣くことなんて出来ないでしょ』

逃げることもせず

進むこともしないのならば

それはもうどうしようもない終わり。


『ない』と言うことはさ
『ない』を正解にしたんでしょ?

『ない』しか選べないって自分で選んだんでしょ。


どうして『する』って言えないのかは

きっと色々あるけどさ

『する』って誓ったら

自分の責任で背負える感情だってあるんだよ。

『ない』から『する』って言えないのは

水溜まりを海だって思いこんでるかもしれない可能性とかを

見ないで選んだってことだと私は思う。

『する』って言って頑張ったけど結果『なかった』って泣くことはあるかもしれない。

でも 掴み取る物は全然違うのに。



けれどね。


世界は全部等しくないから

私の言うことだって

まかり通るわけじゃない。



それも解ってるけど

どうにもこうにも思考はとめられない。



選んで。


自分自身の世界の正解を選んで。

他人にはけして選べない正解を掴んで

掴んだその手が幸せになったら

あいた片方を誰かが掴むよ。

そして幸せを選び続ける線が結ばれていく。



忘れないで。
選んだこと。

忘れないで。
沢山の選択の先に
確かな世界が出来ること。



↑↑↑
これが、私がずっと解っていることの1つかも。
私は泣き叫びもすれば、怠けもするし、どちらかといえば反抗的で、選ぶ道はけして平坦ではない。
それでいて、掴めるものなどたかが知れている。
他人から見たら、塵に等しい人生であろうと思います。上や下からどう見られているか、そういう視線も言葉も沢山受け取って生きてきました。

それでも己を見失わないのは、こういう考え方だからだなぁと自分に思います。
普段から、私は私でしかない事は解っているのです。それが悔しかろうが嬉しかろうが、それでしかない。

私がこういうことを、わざわざ書く時は、周囲に『自分』を見失っているか、『自分らしさ』に囚われた人が増えた時。
この時期はそういう人が多かったんでしょう。

感じ取った事をこうして言葉にし続けています。


来年は何を感じ取るのでしょう。
同じような事を書いたとして、それは、きっとそのことが消化しきれていないからです。
大切な事は何度でもいい。


感じ取ったそれを、あなたがあなたらしい表現であらわし、それが世界を揺らして響きあう。
そういう電子の海が私は好きです。

来年もそれはきっと、変わりません。

年末も年始も海の中にはないように、私の言葉にはあるようでないでしょう。
どうぞ、あなたの時間の許すかぎり、好きなようにお付き合いください。


私は私がみえる範囲で、あなたを見つめていたいのです。







この記事が参加している募集

noteのつづけ方

サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。