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考えて書くことはできるが、独り善がりでいいから、その場で思うてる事を書きたいのだと、そう思う。


その結果、誰の目に止まらなくとも。


はてさて。
情報渦巻く現代で
豊かなのに砂漠のような現代で
私は何を書こうというのか。
私の書くことだから、そら、あなた
なんになるわけでもないのである。

砂漠といえば、海にも砂漠のような場所はある。
むしろ砂漠のような場所のほうが多いのではなかろうか。
海は全部どこかしら豊かだと思っていた私は、その表現をサラッと受け入れた。
砂漠を渡るだけの知恵や体力があれば、砂漠はただの場所に過ぎないが
知恵も体力も持ち合わせていなければひたすらに飢え渇く地獄なのである。
なるほど。そら海のど真ん中、たまに流れる海藻だけがオアシスの海洋では小魚達は砂漠で飢えや渇きを恐れる人間のよう。


ここ最近の、というか、定期的な私の中の流行りに「熊」がいる。今、また、流行りが来ている。
熊という生き物はとても興味深く、それを取り巻く人間の態度や言葉なども興味深い。
私にとって熊という生き物は、人間の生活を考えさせるものだ。
過剰な保護活動家も、過剰な反対派も、私にとっては恐ろしい。
熊は勿論、恐ろしい生き物であるが、人間のほうがよほど怖いと、熊を取り巻く渦を見ると思う。
熊が襲ってくる貴重な動画などをYouTubeで見られる現代は素晴らしい。
動画を繰り返してみながら、立派な毛皮の下の筋肉を想像し感嘆の声が出る。
私が見慣れた犬や猫の筋肉とは異なる、分厚く力強い動きが特徴だと、素人ながらに思う。
あの重さで、あの速さで突っ込んでくるのだ。
そら、人間など一撃で大怪我になる。私など小枝を手折るように簡単に死ぬ。

最近なのか、なんなのか、大型で茶毛のツキノワがいると噂になっているらしい。
それを羆×ツキノワだと言う意見があるが、熊は熊でも、それはないだろうと思ったりする。
自然交配するのには、遠縁すぎる。
だいたい、言われているクマ牧場脱走羆は全部射殺されたとの話ではないか。
しかし今の時点では、解らないのだから、わからない。
たとえ掛け合せがうまくいっていたとして、熊との向き合いは、真剣で慎重であればいいと思う。

マタギのことを調べるのも好きだ。
それは小学生の時からで、そういう物語を好んで読んだりしていた。
私にとってマタギというのは「野生動物」みたいな人間なのだと思う。
食うか食われるか。狩るか狩られるか。
ただ、そこには、命と命の真剣勝負があるだけで
残酷さはない。
怖さを知って、怖さの向こうで勝負することが、どれほど美しいのかを私は感じ取る。
怖さを知らない純真さなど、折れたら終わると私は思っている。
色々混ぜ合わせて、見てくれは悪くなるが、強度の増した意思は、透ける魂の美しさの質が違う。


そう。私が好きなのは「魂の美しさ」だったりする。
何だそれ?と思われるかもしれないが、これは言葉にするとそう表現するのが正しいように思えるので、今回はこうやって表現する。
目では見えないものを、みている。

動物の何が好きかというと、恐れるべきを恐れ、それでも生を全うし、死を迎え入れる道が坂道であるところ。
人間は坂道のところを崖と見誤り、恐れ慄き、崖に橋をかけて生き延びようとする。
死にたいして、過剰。しかも、人間の死だけではなく、他の命にまで過剰に干渉する。なぜそうなってしまったのか。
恐怖心があるのはいいが……このあいだひっそり、ひっそり、好きを押しては、その写真を眺めている写真家さんのインタビュー記事を読み「現代人死を許さない」という言葉に深く頷く。それはお知り合いの言葉だそうだが、確かにそう。
そうだ、死を憎み、嫌い…ここまではいいとして……許さない。

許されない、許せない。
なんとも、重たい言葉の鎖である。

人間のぺらんぺらんの感情に重たい鎖が巻き付いて、現代は進んでいるように思う。
私はそれを感じ取るたびに頭の中がいっぱいになるが、これも流れかと、大きくは逆らわない。
それを人は「そんな事は怠慢だ」と言うかもしれないがわかっていない。
大きく逆らうというのは、川をせき止め思う方向に川を作り変えるということだ。
魚一匹が遡上するのとは訳が違う。
それがどれだけの事か、わからないというのだろうか。
川を作り変えた事で起きる数え切れない変化への責任に押しつぶされないだけの上等な魂など私は持ち合わせてはいないのである。
私はその大きな流れを魚一匹ながらに上空から俯瞰しているというところがあるという話で、魚の私としては、こうして文書を書いている時点で、川の流れに逆らっては、いるわけである。
ただ、それは私個人の動きであり、魚がみんな川流れを逆に泳いだとて、大いなる流れを逆にする事は出来ないのである。
その事に気が付きつつも、それでも良いと逆らい泳いだ結果に辿り着く美しき上流の緩やかな場所を続く未来にしたいものだと思う。

人間の世界の、人間同士のやり取りは、見ていて辟易することが多い。
世界がとても狭いのだ。驚くほど狭く、なのにギュウギュウに詰まっている。詰め込まれている。
考えれば考えるほど、感じ取れば感じ取るほど馬鹿らしくなってくる。
なので、私は人間同士のあれやこれやが多い映画やドラマ、小説なども苦手である。
まぁ、私が人間が苦手というだけのことでもある。

私は、環境の変化の受け入れが早いといわれるが、私の場合「人間が深く関わらなければ」という言葉を前に置いてほしいと思う。
人間の関わることは、大変複雑面倒であることが多いてので、変化されると対応が忙しい。
忙しなく、騒がしいのは好きではない。

やるべき事。私はやるべき事が苦手である。やるべき事をやれるのは凄い事だと思う。
やりたい事は出来る。人に話すと偉いね、凄いねと言われる私の行動は全て「私がやりたいと思ってやった」事である。
やるべきだと、渋々やらされた事が、あとで役に立った経験がほぼ無い。なぜなら、渋々やった事を私はすぐに忘れてしまうからだ。故に、本当に、中学で習ったはずの事の大半を忘れている。高校は単位をもらえる場にいたから、高校も出た事になっているが、高校の教科書に私は一度も触れていない。なので知らない世界だ。
そもそも、あの当時、私にとって教室にいる事自体が渋々だったのだから、忘れて当然だ。
世に出て、人は思いの外「勉強」したことを覚えているのだなと驚いた。そして、それを知っていると仲間内に入れるような、そういう感覚があるのだなぁと外から眺めて思った。
共通の思い出というやつが、ゆるく人間関係を結ばせている。学校というのはそういう面もあるのだなと思う。
勉強の話に関して、私はそもそも渋々なので、その話の時に仲間内に入らなくてもいいかと、ふらふらひらひらしていられる性分だからいいが、ここに劣等感を持ち出したり、当時渋々では無く、心から折れてしまったという場合は、それはそれはねっとりと舐めるような怨嗟の炎が上がる事だろうと想像し、ゾッとする。 
緩く柔く結ばれる縁は護りであり、同時に囲いであり、その外はどうなのか、外に出なくてはわからないものである。

力は力である。
はぁ?と要領の得ない返事が返ってきそうだ。
でも、力は力である。それはそのものということだ。
力があるだけでは、あるだけであり、それをどう動かしているかが重要なのである。
力のぶん回し方が下手な奴の事を私は嫌う。
なぜなら、そういうのは私にとって、害だからである。
私は力の波を人より敏感に感じ取る。
そのものの変化を読み取ることで、本能的に動くことがある。
力に混ぜこまれたモノや、動き方で、だいたい性質は見えてくる。
その性質をおおもとに継ぎ接ぎを作っては、ふむふむやっている根暗が私である。
根本は暗いほうがいい。根に太陽をさんさん浴びるなど、私には考えられない。植物たちも同じだと思う。根は暗く、枝葉は明るく、幹は1本通っている。これが私の健全である。
力のぶん回し方の下手な奴は根を掘り返して、太陽に掲げるみたいな、無駄な労力と私が感じる行動をただ良い笑顔で行う。恐ろしい。大変恐ろしいことである。
いいか。私の目の前にアホみたいな名札をぶら下げて立つということは、この逆鱗に触れるというのに等しいのだよ。
と私の中の何かはいう。
本当になと、そう思う。


雀の立ち位置が、私の立ち位置であると思ったりする。
人の気配がする場所に住んで入るが、人に飼われる位置にはない。
餌はありがたく貰えど、触らせはしない。
手乗りになる気はない。
何時だって遠く飛んで逃げる気がある。
それを微笑ましく観察してくれる、適度にほっておいてくれる。たまに見てくれる。気まぐれに餌をくれる。そういう人間が私が付き合う人間であると感じる。私はチュンチュンと雀語で話し、それをなんとなく雰囲気で感じ取って、それがなんの為になったかはわからないが、お礼にと良くしてくれるので、まぁこれはこれでと、共に生きる。
そういうものである。
ひとつ違うのは私が擬態用に選んだ身体が人間であるというところだ。
人間に擬態しているわけだから、懸命に人間のふりをして生きている。
ニンゲンモドキである。あぁ、ニンゲンモドキ。
他のニンゲンモドキ達も、自分が人間ではないと何処かで思いつつ、いや、人間だろう?と自問自答して生きているのであろうか。鮮やかに騙されるのは他人だけとは限らない。

敵を欺くため、まず己を欺き通す。
そう、それは詐欺の真髄ではなかろうか。
そして、自分にかけた嘘を必要に応じて鮮やかに取ることが出来る詐欺師は一流だろう。
私は私自身を詐欺師に向いていると思うことがある。
知り合い数名にも「お前は詐欺師に向いてると思う」と言われるので、多分向いている。
人間社会での金銭目的の詐欺行為は美しくないので私はしたくないし、それをされると困るのでご遠慮願いたいが、自然界で擬態と呼ばれる、それこそ詐欺行為は美しいと思っている。
獲物を狩るための擬態、狩られないための擬態。
小さな力の大きな使い方である。
爪や牙だけが力ではない。
そういう当たり前の、根本なところを見逃すやつから食われていく。

適者生存は長期的目線。
弱肉強食は目の前である。
私は弱肉強食の世界で弱側に存在している。
ありとあらゆる手を使い、適者生存というにはあまりに細い道を縫うように生き延びていると感じる。
敵にあわないように、敵の好みのをしり、遠ざける。
それは本能的に行われる部分もあり、私はこの無意識の拒絶によって、護られている。
私の護りは、私に目隠しをしない。
きちんと恐怖心を持たせてくる。
気に食わないが有り難い防御壁のおかげで、私は直接的な危機を回避しつつ、危機を危機として感じ取るために必要なものを取り込んでいる。


四千字強書いたところで、シャワーを浴びた。
思考も流れ落ちたかのんびりしている。
夫がいるのでテレビがついていて、身体につての話を芸能人があーだこたーだしているが、これを全部本当と思う人がいるのが驚きである。
テレビで見たことは気になれば、実践してみる。
だいたい私の体に合わない。そらそうだ、何故かテレビも本も肥満体質に対しての事ばかりで、体重を適正に増やすとかそういうのはやらないのである。それだけ、健康に太るというのは難しいということだ。

そうだ。ガリガリに痩せていていいことがある。
肉々しい身体に魅力を感じる人間から空気として扱われることが出来るということである。
ようは、痴漢などに遭いにくいのだ。顔の造形も相まって、触る気が失せるのだろう。ありがたいことである。
触ったところで、そこが胸か肋骨か、わからぬのでは触りがいもなかろうよ。
尻にも柔らかさなどというものは期待できない。筋肉があるわけでもなく、そう、とにかく触り心地に欠けるので、触られる機会が少ない。
私は人から触れられる事がそもそも苦手なので、とても相性のいい身体を手にしている。
しかし、一度でいいから胸の谷間に手を入れてみたいという願望があるため、谷間を貸してくれる人は随時募集中である。
あ、普通に痴漢は男女共にいなくなるといいと思う。
そんなこっそり犯罪的に触ろうとせず、堂々と健全に触れる者になりたまえ。

ここまで五千字弱。
これは一体何なのだろうか。
わからない。
私にはわからない。
ただ言えるのは
これは私の一欠片に過ぎないということだ。
いくつもの考え方を同時に進めたり、それを途中で混ぜたり、消してみたり戻してみたりをして、私は存在している。
輪郭は確かに私として、はっきりこの世にあるようで、つつけばぷるぷると形を歪ませる生命体なのである。
人間はそういうのを嫌うものが多いように感じるが、それは私を人間として、同族同種として捉えているからである。
そんな、人間の形をしていたら人間だろうという、常識は早々に捨ててしまうことを、私の文書を読む方々にはおすすめしよう。


そもそも、文章のみのこの世界で、肉体などという曖昧なものを仮定してどうする。
魂の形に人間を擬態させているだけで、そうじゃないというやつもチラホラみかける。
もっと自由に泳ごうではないか。


これは
なんのはなしですか 
と聞かれるより 
ちと重さがあるなぁということで
まぁタグはなくてもいいかーとなる。


なんの話かは私だけわかればよいし
なんの話かわかった人がいれば有り難いだけ。


よし。オタマトーンの演奏でもYouTubeで見て癒やされよう。

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