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美弱あつめ001 「光る産毛」 ※創作大賞応募作

び ・ じゃく【美弱】
1  その人やものがもつ美しい弱さ。
2  弱さを受け入れ、慈しむことで、より自分らしく生きている状態。

 草木の蕾や実にびっしりと生えた産毛につい目がいってしまう。

五月初旬のある日、近所の公園で、淡いピンクのバラの花を囲むように、先がツンと尖った固い蕾がいくつもついているのを見た。その様子がまるで、気高く美しいお姫様をお守りする兵士のように思える。

しかしよく見れば、頑強そうな蕾たちには微細な産毛が生えている。勇敢な兵士であっても、思わず立ちすくんだり、体が震えるような恐怖に襲われたりすることもあるのだろうか。産毛は、鎧の中に秘めておいたはずの弱さが顕れたものかもしれない。お姫様はその弱さを知り、受け入れた上で、彼らを頼っているのかもしれない。

日本の女性の多くは「ムダ毛」を人に見せてはいけないという常識のなかで生きている。私も小学五年生の頃、いつの間にかふさふさと生えていたすね毛が猛烈に恥ずかしくなり、家に誰もいない午後、風呂場にあった父のカミソリを拝借してすね毛を剃った。石鹸も何もつけず、しかも毛の流れに逆らい足首から膝に向かって剃ったものだから、両脚がヒリヒリと痛い。毛穴の一つひとつが赤くなり、点々とくっきり浮かんだ。

何かに失敗すると「しまった、やってしまった」と焦りながら、もう一人の私がその瞬間の光景をじっと観察していることが多い。その毛穴ぶつぶつ事件のときは、風呂場の出窓から差し込む光が、ミントグリーンのタイルの床や壁を明るく照らしているのが美しいなと思った。それからというもの、すね毛は夜お風呂に入ったときにボディーソープを塗ってから剃るようになった。赤いぶつぶつはいまだに残っている。

高校二年生のとき、同じクラスに「あっこちゃん」という女の子がいた。陸上部のマネージャーで、同じ部の運動神経の良い彼氏がいる。大きな目がきゅるんと輝き、ふっくらとした唇はグロスが塗られて艶やか。同い年とは思えない色気があり、あっこちゃんに「ななえ〜」と呼び捨てにされる度にドキドキした。

私はオフサイドのルールもろくに知らないのにサッカー部のマネージャーをしていて(誰かの役に立っている手応えが欲しかったのだと思う)、あっこちゃんとはグラウンドの隅っこでよく会った。

ある日の部活中、ぶかっとしたジャージを着たあっこちゃんが「ななえ〜、お疲れ〜!」と手を振りながら来てくれた。そして私の顔をじっと見つめたかと思ったら、両手で私の頬を包み込みながら「ななえ、産毛生えてる〜」と笑った。私は反射的に恥ずかしいと感じ、地面の乾いた土を見た。そういえば、顔の産毛は気にしたことなかったよ。

でも、あっこちゃんはそんな私の様子を気にするそぶりもなく、両手でそのまま私の頬を優しく撫でながら「産毛、ふわふわで雪見だいふくみたい!可愛い〜!気持ちいい〜!」と目を三日月にする。えっ、可愛くなんかないよ、ムダ毛だよ。私はますます恥ずかしくなったけれど、あっこちゃんは微笑み続けている。あっこちゃんの華奢な指がしっとりとして温かかった。

顔の産毛の存在に気づいた私は、大学生になったらすぐに顔剃りに行こうと決めていた。しかし、どこの店にすれば良いか分からず、とりあえず母が通っている近所の理容室を選んだ。その店は、母と同年代の人当たりの良い女性が一人でやっているという。

シャンプー台の椅子に横たわり、きめ細かく滑らかな泡が顔に塗られるのを、真っ暗なまぶたの裏で感じる。女性の元気なおしゃべりとともに泡の重みが少しずつなくなり、皮膚の表面に微風がスースーと当たるようになる。そろそろ終わるのかな、というタイミングで「眉毛もきれいに整えましょうね」と声を掛けられ、私は思わず心が弾んだ。もっと垢抜けられるかもしれない。

ところが「はい、お疲れ様でした」と椅子を起こされた私は、自分の顔を鏡で見て血の気が失せた。眉毛が極細になっていたのだ、アムラー並みに。デビュー当時の安室奈美恵のメイクやファッションを真似た、あのアムラーだ。アムラーが流行ったのは私が中学生の頃で、完全に時代遅れである。もともと薄くて悩んでいたのに、スマホの充電ケーブルくらいの細さになり、私の眉毛は完全に存在感を失った。真っ青な顔をしている私の後ろで、理容師のおばさん(おばさんと書かずにはいられない)は「きれいになったわねぇ」と満足そうに笑っていた。 アムラー眉の私は帰宅後、部屋に閉じこもって一晩中泣いた。

眉毛を極細にされたトラウマが相当強かったのだろう。私が顔剃りに行ったのはこの時だけで、後にも先にもない。でも今思えば、高校時代にあっこちゃんが頬を撫でて可愛いと言ってくれた、あの出来事があったからこそ「顔の産毛は剃らなくてもいいか」と吹っ切れたのかもしれない。すね毛はさすがに剃ってるけれど。

あれから二十年以上、顔の産毛がそよ風を受け、微かに揺れるのをたまに感じながら生きている。想像と実感の間を行き来するような、幻のような弱い揺れだ。産毛のないつるんとした顔になったとき、何にも守られていない心許なさを覚えたのも、顔の産毛とともに生きる理由だろうか。ほわほわして可愛い無数の存在が、ずっと小さく息をしてくれている。

先日、難波神社の境内にある花桃に実がついているのを見つけた。うぐいす色とくすんだピンクが合わさった実に、やはりびっしりと産毛が生えている。その産毛が陽を浴びて、銀色に光っているのだ。角度によって消えたり、波のようにきらめいたり、また消えたりする。人もこんな風に儚い光を放ちながら生きているのだと思う。

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こちらは創作大賞の応募作です。さなみ七恵が見つけてきた「美弱」を「美弱あつめ」として綴っていこうと思います。七月末の締切までに五十作品は公開したいな……!!ゆくゆくは辞書や図鑑のような本にしたいです。もし良かったら応援お願いいたします。


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