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美弱あつめ002 「すぐにバレる嘘」

び ・ じゃく【美弱】
1 その人やものがもつ美しい弱さ。
2 弱さを受け入れ、慈しむことで、より自分らしく生きている状態。

多くの人は「甘えてる」「現実逃避してる」と思うかもしれないけれど、約二十年前、私はろくに就活をしなかった。面接で自分の考えを話すのが怖かったし、その結果、お祈りされるのも辛かった。かと言って、面接の練習をしたり、自己分析や業界分析をしたりすることもなかった。努力が実らなかったときに「本気じゃなかったから仕方ない」と自分に言い訳できるように、だと思う。

一方で「自分の手で何かを生み出したい」「自己表現したい」という気持ちは強かった。どんな手段で何を創造したいのかもわからないくせに、アーティストになりたいと思っていたのだ。自分の存在価値を人に認めてもらいたがっていたのかもしれない。

大学四年生の十二月、私は父に「卒業したら、就職せずに美大の予備校に行きたい」と思い切って話した。あるきっかけでコラージュ作品を作ることになったのだが、自分でも驚くほど没頭でき、当時付き合っていた恋人にも作品を褒められた。とてつもなく短絡的な私は「じゃあコラージュ作家になりたい!そのために美大に行こう!」と思ったのだ。ろくに絵を描いたこともないのに。でも、やっとコラージュという表現の手段が見つかり、とても嬉しかった。

「何ふざけたこと言ってんだ!!何でもいいから働いて、少しは社会の役に立ったらどうだ!!」

現実は甘くなかった。 就活していない後ろめたさがあり、それまで父と会話をするのはできるだけ避けていた。そんな娘が急に「予備校と美大の学費を出してほしい」と言い出したものだから、父の堪忍袋の緒が切れるのも仕方ない。私は父の一喝に何も言い返せず、美大の話を封印した。自分で学費を工面しようとしなかったし、作品も作らなくなったから、結局コラージュに対しての本気度はその程度だったのだと思う。父もそれを見抜いていたのかもしれない。

美大進学を断念した私は、大学卒業を目前にしてようやく就活に取り組むようになった。
働かねばならない。でも、自分らしい表現を見つけたい。アーティストになれなくても、せめてアートに関わりたい。そんな想いを抱えながら、傘の製造会社やインテリア用品の卸、製紙工場などをぽつりぽつりと受けた。でも、今まで就活から逃げていた私にはなかなか内定が出ない。面接で「あなたは弊社には合わない」とはっきり言われることもあった。

ようやく就職先が決まったのは、卒業式の二ヶ月後だった。しかも、瀬戸内海の直島。神奈川の実家から新幹線やフェリーを乗り継いで六時間ほどかかる、小さな島のホテルに採用されたのだ。

直島は地中美術館などのアート施設が島中にあり「芸術の島」と言われる。周回遅れの就活中、二人の友人から立て続けに「直島という素晴らしい島があるんだよ」と聞き、八方塞がりだった私は「就活の息抜きに行ってみようかな」と思い立った。せっかく行くなら、ホテルと美術館が一体になっているという「ベネッセハウス」に泊まってみたい。もしかしてそこが私の働く場所になるかもしれない。そんな予感もあった。
初めて直島を訪れ、島の美しさとベネッセハウスのスタッフの温かさに感動した私は「ここしかない」と確信し、旅から戻ったらすぐに求人に応募した。そして幸運なことに、内定をもらえたのだ。

「瀬戸内海にある直島のホテルで働きます」

美大に行きたいと言っていた娘が、次は島で働くと言い出して、両親は相当驚いたようだった。母は「家から一度も出たことがないのに大丈夫なの?」と心配し、父も「どこ、そこ?」と訝しんだ。でも、父はすぐにパソコンで直島について調べ始めて「芸術の島で働くのもいいんじゃない。感性が豊かになりそうで。行っておいでよ」と言ってくれた。その当時の私なりの精一杯で「アートの道」に進もうとしたことを、父は応援しようと思ってくれたのだろう。

直島への引越しは、父が会社を休んで手伝ってくれることになった。卒業したら両親に頼らず自立しなければと思っていた私は「一人で引越します」と言ったけれど、父に「何言ってるんだ!引越しは大変なんだぞ!こういうときは頼りなさい!」と叱られた。

引越し当日、父が運転するレンタカーでフェリーに乗り込み、直島へ向かった。直島はベネッセハウスや地中美術館などのアート施設があるエリアと、島の住民が暮らすエリア、三菱マテリアルの精錬所がある工業エリアに大きく分かれる。フェリーを降りた私たちはベネッセハウスがあるエリアへ車を走らせた。途中、直島のシンボルである草間彌生の「南瓜」を見た父は「なんだあれ、すごいなあ」と楽しげに呟いた。普段もの静かであまり感情を表さないのに珍しい。私が進路でおろおろしていたのを心配するあまり、喜怒哀楽の輪郭が濃くなったのかもしれない。

初めての一人暮らしの家は、会社が貸してくれた古民家だった。古民家というと聞こえがいいけれど、和室を歩くと茶色の畳がふわんと沈み、お手洗いは汲み取りの和式。おしゃれな古民家暮らしを期待していた私はガッカリし、田舎の山奥育ちの父も「ぐえーっ、今どきこれはすごいなあ」と苦笑いした。

一人暮らしには広すぎるその家で、私と父は丸二日間、黙々と掃除をしたり、家電を設置したり、段ボールの荷物をほどいたりして過ごした。
お腹が空く頃合いになると、父が「そろそろ何か食べに行く?」と声をかけてくる。一日目の昼と晩は近所の福祉センターの食堂で鯖味噌定食を食べたり、うどん屋でわかめうどんを食べたりした。父とはほとんど会話をしてこなかったから、外でも特に話は弾まない。たまにひと言、ふた言、店にあるテレビから流れる番組や天気の話をするだけだ。

二日目の晩は福祉センターが定休日だったので、家から歩いていける飲み屋に行くことにした。父が「最後の夜くらい、地元の魚を食べたい」と言い出したのだ。

カラカラと飲み屋の扉を開けると、狭い店内にはカウンター席しかなく、地元民らしき男性二人組が既に座っていた。二人ともタンクトップから黒く焼けた太い腕が出ている。まだ五月で夜は冷え込むのに、随分気が早いなと思う。店主と顔なじみのようで、賑やかに話していた。やんちゃなお兄さんたちだったらどうしようと、私は思わず身構える。もちろん父には何も言わなかったけれど。

男性たちと一席空けて座った私たちは、蛸と真鯛の刺身や焼き魚を注文した。刺身好きの父は「やっぱり瀬戸内海だけあって魚が美味いなあ」と、機嫌よく瓶ビールを手酌する。この引越しで父がお酒を飲んだのは初めてだった。店内で一人だけ下戸の私は、何事もなく帰れますようにと密かに願いながら、背中を丸めた。今振り返ってみても、刺身や焼き魚の味を全く思い出せない。

〆は焼きおにぎりにした。「お父さんも食べたい」と酔った父が言うので、一人一個ずつ。もうすぐお店を出られそうになり、私はようやく料理を味わう心の余裕が出てきた。焼きおにぎりは思ったより大きく、醤油の焦げが香ばしい。熱々を頬張っていると、色黒の男性の一人が話しかけてきた。

「娘さんと二人で旅行ですか?親子水入らずでいいですね」

やんちゃそうな見た目に反して、案外丁寧な話し方に内心驚く。すると、父が「そうなんです、観光で。明日には帰るんですが」と即座に答えた。酔っていたはずなのに、しっかりした口調で適度に愛想も滲んでいる。男性はうんうんと笑顔で頷き、そのまま連れと店主との会話に戻っていった。私は二人のやりとりが数十秒で終わるのを黙って待つのみだった。

「どんな島かリサーチしようと思って観光客のふりしたの。そのほうが色々教えてくれるかもでしょ。作戦作戦」

店を出ると、私が何も聞いていないのに父は妙に明るい声で弁解した。そして、ビールを飲みすぎて体が冷えたのか「寒い寒い」としきりに言う。私は何も返さず、父と少し距離をおいて歩いた。
翌朝、父は神奈川に帰っていった。「体を大切に」と、ぽつり言い残して。

一人暮らしを始めて一ヶ月ほど後、島唯一の郵便局に行くと、あの飲み屋で話しかけてくれた男性が窓口で働いているのを見かけた。もちろんタンクトップではなく、白のワイシャツ姿だった。男性は私の姿に気付くと「あっ」という顔をしたけれど、特に話しかけてこなかった。私ももちろん話しかけず、心の中で「嘘をついてごめんなさい」と謝った。小さな島だったけれど、彼に会ったのはこれっきりだった。

あの飲み屋の帰り道、小さな島ですぐにバレるであろう嘘をついた父に対し、無性に腹が立ったものだった。後で気まずい思いをするのは私なのに、と。「作戦作戦」と私に言ったのも、嘘をごまかしているようで情けないと思っていた。でも、二十年近く経った今は、悪い虫がつかないように娘を守らんとした不器用な親心がありがたい。ご機嫌に酔っているようで、しっかり私のことを気にかけていたのだ。
私の心残りは、あの夜、五月の冷たい風に吹かれて寒がっていた父に、体を気遣う言葉を何もかけられなかったこと。だから、父も私もすっかり歳をとった今は、たまに父に会えたときも、なかなか会えないときも、声や文字で「体を大切に」とたくさん伝えていきたい。 父が直島の港で言ってくれたように。

ところで、私は今、この世界に無数に存在する「美弱」を「書くこと」で表現している。二十年近くかかって、ようやく「美弱」というテーマに出会えたのだ。私が大学生の頃に思い描いていたアーティストとは少し違うけれど、アーティストの端くれだと自信をもって言いたい。もし万が一、直島ではなく美大に行っていたら……書くことではなく他の手段で、やっぱり「美弱」を表現していたと思う。

どこにいても、どんな手段でも、表現できる。自分に表現したいことさえあれば。そんな当たり前のことを学ぶきっかけもくれた父に、とても感謝している。

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