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美弱あつめ003 「半目の写真」

び ・ じゃく【美弱】
1 その人やものがもつ美しい弱さ。
2 弱さを受け入れ、慈しむことで、より自分らしく生きている状態。

二十四歳のとき、急に思い立ち、小学校からそれまでにデジカメや「写ルンです」で撮った写真と、みっちりと隙間なく貼ったプリクラ帳を捨てた。自分のぶさいくな顔を目にするのは鏡だけで十分だったし、自分が辿ってきた痕跡を消したら、過去の自分とさよならして真新しい自分になれる気がしたのだ。大量の写真を紙袋とゴミ袋で二重に封印し、こっそり処分してからは、できるだけ自分の顔がこの世に残らないように気をつけてきた。

物心ついた頃から写真を撮られるのが苦痛で仕方なかった。またぶさいくに写るのかと思うと、カメラの前でうまく笑えなくなる。ぶさいくなりに一番マシな表情で写ろうとして、口を「いーっ」と横に伸ばし、目を不自然にならない程度に見開く。でも、今度こそマシに写っていますように、あわよくば可愛く……と祈っても、出来た写真を見るとやっぱり落胆する。顔が引きつっていたり、ほうれい線がくっきり刻まれていたり、唇が紫色だったりするのだ。まばたき途中の情けない半目のことも多く、心底悲しくなる。シャッターはほんの一瞬なのに、どうしてよりによってキメ顔の隙を切り取られてしまうのだろう。

LINEの奥底から発掘した写真(顔色が悪い)

自撮りはもちろんのこと、人に「写真を撮ってくれませんか」とお願いするなんてもってのほかだった。ぶさいくの物的証拠を自ら残すのは絶対に嫌だったし、何より人に「こんなぶさいくなのに撮りたいんだ」と思われたらどうしようと怖かった。

ところが、三十五年以上ずっと写真に写るのが苦痛だったのに、一年前から徐々に喜びに変わったのだ。自分でも信じられない。きっかけは、仕事のポートフォリオ用のプロフィール写真だった。

ちょうど一年前、私はWeb制作会社に所属してライターとして働いていた。その会社での仕事にはとてもやりがいを感じていたけれど、有能な生成AIも登場する中、この先もライターとして生き残れるのだろうかという不安も大きかった。ならば、生成AIにも誰にも書けない、つまり私にしか書けない文章を書いていこう。そう決意し、複業用のポートフォリオを作ることにしたのだ。

「人となりが伝わりやすくなるから、ポートフォリオにはプロフィール写真も載せたほうが良いですよ」

ポートフォリオの作成中、先輩ライターさんにそう教えてもらい、私は気持ちが沈んだ。プロフィール写真、やっぱり必要だよね……。また自分がぶさいくだと思い知らないといけないのか。しかも世界に晒さないといけないのか。

でも、もしかしてプロなら、ぶさいくな私をうまく撮ってくれるかもしれない。せっかくなら後悔のないようにできる限りのことはしようと、以前から憧れていたフォトグラファーさんにプロフィール写真の撮影を依頼した。しかも、それまでお化粧をする習慣がなかったのに、撮影当日にはメイクサロンで眉毛カットとフルメイク、ヘアセットまでしてもらった。すごい気合いの入れようだ。
フォトグラファーさんとの待ち合わせ前に駅のお手洗いに入ったら、鏡に見たことのない顔が映っていて胸がドキドキしたのを覚えている。今日の私、もしかして可愛いのでは……!?どうかこの顔を撮影中もキープできますようにと、祈らずにはいられなかった。

ナチュラルでやさしい雰囲気の写真にしたかったから、撮影は新緑が美しい公園でおこなった。フォトグラファーさんはむやみにシャッターを切るのではなく、二人で色々なおしゃべりをする合間に、さりげなくファインダーを覗いて撮ってくれる。「もっと撮らなくても大丈夫?ひどい顔ばかりにならない?」と最初は不安だったけれど、初めて会った彼とのおしゃべりは不思議と楽しく、徐々に心がほぐれていくのを感じた。大嫌いなカメラの前で、笑おうとせずに自然と笑えていることが信じられなかった。

「うん、良い写真が撮れました。見てみます?」

たっぷり二時間かけた撮影が終了したとき、フォトグラファーさんがそう言ってくれたけれど「いや、信頼してるので大丈夫です!」と即座に答えた。半分は本当。でも、もう半分は嘘。自分の顔を見るのが怖かったのだ。彼の腕を信頼しているけれど、自分の顔はまだ信頼しきれていなかった。

数日後にフォトグラファーさんから送られてきた写真のデータを開くとき、緊張で手が震え、吐きそうになった。でも「えいや!」と開いたフォルダには、驚くほど可愛い私がたくさんいた。たくさんいたというか、全部可愛かった。きっと半目や引きつった顔の写真は弾いてくれたのだろう。補正もたくさんしてくれたのだろう。でも、少なくともこのフォルダの中の私は、初夏の光を浴びてとても幸せそうに笑い、きらきらと輝いていた。自分じゃないみたいだけど、間違いなく全て自分。私、こんな表情ができるんだねと、写真を見ながら泣いた。

フォトグラファーさん撮影のプロフィール写真

私も可愛く写ることができる。そう気づいてからも、写真への苦手意識は相変わらずあった。「あの写真が可愛かったのは、プロに撮影してもらったから」と思い込んでいたのだ。でも、固い蕾が少しずつ開いていくように、私の心が一年かけて変わっていった。
自分の写真をこの世に残す喜びを感じていい。それを受け入れる心の旅を、周りの人の優しさにも触れながら続けた一年だった。

とてつもなく大きな変化だったのは、可愛くなろうとすることを、心から楽しめるようになったこと。かつての私は「ぶさいくな自分なんかが可愛くなれるわけない」「可愛くなろうとしたら、周りに冷やかされる」などと恐れ、可愛くなることをひたすら避けていた。

でも、やっぱりあのプロフィール写真みたいにもう一度可愛くなりたい。そう思い、勇気を出してお化粧をしたり、髪を伸ばしたり、スカートやワンピースを着たりするようになった。すると、面白いほど見た目が変わり、鏡を見るたびに「わぁ!前とは別人だねぇ!」と心が弾むようになったのだ。夫や友だちにも「本当に可愛くなったねぇ」と言われるようになり、最初は気恥ずかしくて「やめてやめて!」と否定していたけれど、次第に「えへへ、そうなの」と素直に喜べるようになった。可愛くなろうとすることは全く怖くないし、悪いことでもない。それどころか、とても幸せなことだとわかった。

もう一つの大きな変化は、やりたいことをやる人生にしようと決めたこと。一年前、自分にしか書けない文章を書いていこうと決意したけれど、それだけでなく、ずっと我慢していた旅を好きなだけしたり、欲しいと思ったものは買ったりしようと決めたのだ。今考えてみれば、お化粧をしたり、おしゃれをしたりして可愛くなることも、心の奥底ではずっとやりたかったことなのだろう。

やりたいことをまっすぐにやると、体の内側から喜びの光が溢れ出るのかもしれない。それがその人本来の「美しさ」として輝き、周りの人も惹きつけるのではないかしら。というのも、行きたい場所へひとり旅をするようになってから「写真を撮りますよ」としょっちゅう声をかけられるようになったのだ。乗っているタクシーの運転手さんに言われることもあれば、何も考えずに歩いていたら、急に地元の人に話しかけられることもあった。
やっぱり最初は「いや、写真は大丈夫です!」と遠慮していたのだけれど、たいていの人は「いいからいいから!」と笑いながら、半ば強引に私の手からスマホを取り、写真を撮ってくれる。なるべく顔が写らないようにマスクを付けっぱなしにしていたら「マスクは外してね!」とわざわざ言われることもあった。

でも、そんな風に旅先で撮ってもらった写真の私は、とてもとても楽しそうで、満面の笑みなのだ。かつてのキメ顔の名残りがありつつも、目尻が下がり、瞳に明るい光が宿っている。口元は力んで「いーっ」としなくても、自然と綻ぶようになった。撮ってもらった写真を見返すたびに「良かったねぇ。楽しかったねぇ。可愛いねぇ」と嬉しい気持ちになるだなんて、思いもしなかった。

島根の熊野大社でタクシー運転手さんが撮ってくださった
40歳の誕生日の写真

半月ほど前、奈良の神社を巡るバスツアーにひとりで参加することになった。とある神社には御神馬がいらっしゃるといい、最近馬が大好きになった私は「御神馬と一緒に写真を撮ってもらおう!」と、とても楽しみにしていた。私、誰かに写真をお願いしようと思うくらい変わったのだなぁとびっくりしながら。

ツアーの当日、ついに御神馬に会えた私は、そばにいた五十代くらいのご夫婦に「すみません、写真を撮ってもらえませんか……」と声をかけた。同じバスツアーの人ではないようだけれど、気さくな雰囲気が滲み出ている。すると、明るい緑色のポロシャツを着た旦那さんがニコッと笑い、「はい、チーズ」と慣れた様子で撮ってくれた。

私はお礼を言ってスマホを受け取ると、喜びで駆け出したい気持ちを抑えながらバスに戻った。やったー!!美しい御神馬とツーショットを撮ってもらえた!!自分からお願いできた!!

バスに乗るまで待てなくて、歩きながらスマホのアルバムを開く。可愛く撮れてるかな、ちゃんと笑えてるかな、うふふ。

「あっ、半目……」

なんと、たった一枚撮ってもらった写真は半目だったのだ。今にもくしゃみが出そうな、むず痒そうな顔。少し猫背なのも滑稽さを強調している。えええええ、あんなに楽しみにしていたのに、どうして。私は本気で泣きたくなった。もう一度、他の人にお願いする?でも、集合時間になっちゃう……。

結局リベンジは諦め、バスに乗り込んだ。写真一枚くらいで大袈裟な、と思われるかもしれないけれど、添乗員さんの話が入ってこなくなるほど、しばらく落ち込んだ。半目……。

でも不思議なことに、バスツアーの帰りの電車で再び半目の写真を見てみたら「あれ、なんかこれはこれで良い写真かもしれない」と思えたのだ。情けない半目だけれど、とても楽しそうなのは伝わってくる。それに、御神馬と表情が似ている気がするのも嬉しい。

「なんだ、すごい可愛いじゃん!めちゃくちゃ良い写真だと思うよ。ダンジョン飯のファリンみたい」

帰宅後、夫にことの顛末を話して恐る恐る写真を見せると、彼はすぐにそう返してくれた。そうか〜!やっぱり良い写真だよね、嬉しい!!

好きなことをしているときや、好きな人(馬)に会えたときの表情は、たとえ半目でもとても愛おしい。きれいに整った笑顔だけが可愛いわけではないのだと知れたことは、私にとって世紀の大発見だった。それからは、半目でも、むくんでいても、どんな顔でも、自分の写真は全て可愛くて大切なものになった。

でもね、実はずーーーっと前から「私の写真は可愛い」と、自分の魂は知っていたのかもしれない。

かつて大量の写真を捨てたとき、主に父親が撮ってくれた幼少期のアルバムはなんとなく処分できなかった。

「この七恵、すごく可愛いなぁ!この写真を撮ってアルバムに残しておこうと思ったお父さん、天才だな」

結婚したての頃だったか、実家に帰省した際に、そのアルバムの中の一枚を夫がニコニコしながら眺めていた。私も横から覗き込み「えーっ、これが?そうかねぇ」と言い、スマホでカシャッと撮った。やっぱり半目の、入れ歯が抜けたおばあちゃんみたいな私。

それから十年以上、私はその半目の小さな自分の写真をLINEのアイコンにしている。間抜けな顔だと思いながら、ちゃんと気に入っていたのだな。

半目の小さな女の子はずっと、大人の私に「あなたは可愛いよ」と伝えてくれていたのかもしれない。心の奥底ではその声に気づいていたけれど、ようやくちゃんと認められるようになったこと、本当に嬉しい。私は生まれてからずっと可愛かったんだね。

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