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身体のこと、ものがたりを生きること

明けましておめでとうございます。それともHello World…
初noteです。

東洋医学をはじめとするホリスティックケアについて、あちこちで書いたり話したりさせていただく機会が増えてきました。いただいたテーマに合わせて応えるように書くうちに、私が書いているさまざまな情報を束ねる要としての私のベースをまとめておく場所の必要性を感じたのがひとつ。パッチワークのように原稿を綴るうちに、私の認識している東洋医学的な世界を通底する感覚、全体像のようなものを書き留めておきたくなったのがひとつ。それから…

まぁ、そんなこんなで、note、始めました。

東洋医学に限らず、伝統医学や民族医学と称されるものは“ものがたりの医学”“世界の解釈論の医学”なのだと私は考えています。世界のありよう、生命の仕組み、生体のはたらき…そういったものを数千年のオーダーで観察し、ある条件下である病を発症すること、ある条件下でその病状が変化すること、そしてある薬や行為に応じて治癒することのひとつひとつを解釈して意味を与え、その解釈をさらに論じていくために“解釈の要素となった概念”に名前をつけることの繰り返しで組み上げられていったのが、例えば古代中国医学やアーユルヴェーダ等の名で呼ばれる伝統医学である—。これはおそらくかなり公平で、かつ事実に即した解釈であろうと思うのです。

例えば“気・血・水”。
それぞれが具体的に何を意味しているのか(様々な解説があります)、体内を巡るものと言ってはいるが、それらを分離してみせることはできるのか(◯◯は“血(けつ)”に相当する…というような言説はよくありますが、これこそが“血(けつ)である”と写真に撮って示したような例は今のところ私は知りません)。にもかかわらず私たちは漢方に関連して語る時、気血水の実在にいちいち疑義を呈することはありません。cogito ergo sum的に、《命があって生きている以上、気血水は存在し機能している》という前提を無意識のうちに(なんとなく、と言った方が正確かもしれません)共有しているのです。

何故私たちは気血水という概念を持つに至ったのか。
古典を読むうちに“気は血に内包される”“水は気に推動される”等の表現に出会います。それらの表現を追っていくうちに気血水は全く別個のものが互いに関連しながら生命を運営している—のではなく、気血水とは生命が維持されているというひとつの現象の裏側に存在するであろう様々な機能について、それらを推測しつつ大まかに三つの性質に分け、それぞれに名称を与えたものとするのが適切なのではないかと考えるようになりました。

もちろんこれも私個人の解釈に過ぎません。
しかし古典に記されていることは、古代中国医学の成立時に人体や生命がどのように捉えられていたかということの根拠とも言えますので、あながち故なきこととも言えないでしょう。また気血水論を“生命を運営する機能の概念化”のひとつのあり方と考えれば、アーユルヴェーダのトリドーシャ説や古代ギリシャ医学やユナニ医学で定義され中世ヨーロッパに展開した四体液説なども共に、人体というひとつの存在をどのように解釈したかという“それぞれのものがたり”というライン上に同等に並び、なんだか世界が豊かに賑やかになります。

私たちはこのひとつの身体でもって、世界や生命に関する様々なものがたりの中を横断的に生きている—西洋医学(これは物証・実証主義を取っているので、その証拠すなわちエビデンスが示せた部分では頭抜けて“強く”なりますが、そうでない部分については空白—という、やや特殊な形式になっています)も、その“ものがたり群”の一翼を担っている。
そう考えることで、身体もその解釈も、少し自分の感覚に親しいものになってきます。


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