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連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第七話

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第七話:『知らないという幸運』



 女将さんに礼を言いアタシ達は旅館を後にした。雨は降ってはいないが、雲が厚く空を覆っている。湿度のせいなのか、潮風のせいなのか、やけに空気が重たく感じられた。車に乗り込むと、七瀬はダッシュボードの中から地図を取り出した。
「もう本州の北端か」
 眺めながら北海道に突き出た半島に指を置く。
「ん?アタシ達青森にいるの?!」
 十日間北上を続けていれば納得も行くものだが、鳥取で七瀬に拾われたアタシにとって、本州の最北端は海外ほどに遠く感じらる場所である。数えきれないほどの浜辺に降り立ったアタシ達ではあったが、七瀬は未だに『たどり着かねばならぬ場所』に出会えていないようだ。
「ねぇ七瀬。七瀬が探している場所、七瀬も知らないんだよね?」
 七瀬はコクリと頷いた。
「七瀬が知らなかったら、たどり着いたかどうか分からないんじゃないの?」
「私が知らなくとも、陽介が感じ取ると思うの」
 アタシにはよく理解できなかった。眠ったままの陽介がどうやってたどり着く場所を[感じ取る]ことが出来るのだろうか?
「波の音や、潮風や砂浜。きっと陽介は思い出す」
 眠りに就いていても、感覚は研ぎ澄まされているとでもいうのだろうか?実際砂浜に降り立っているのは七瀬で、陽介ではない。七瀬は眠りに就く前に、陽介にそれぞれの砂浜での感覚をそっと囁いているのかもしれない。昨日風車の浜辺での話を聞いた時に、陽介と七瀬の近さを感じていた。いつもそばにいて助け合う、そんな印象を受けたのだ。もしかして。。。
「陽介は、七瀬の双子の弟だったりする!?」
 思いをそのまま口にしてしまったアタシの言葉に、七瀬は一瞬目を丸くした後、顔を崩しながら笑った。その表情はどこかくすぐったさそうな、照れくさそうなものだった。
 車のエンジンがかけられると、アタシは七瀬にコンビニに寄るよう促した。一文無しのアタシが頼むのは気が引けたが、七瀬の痛々しい拳を見ている方が嫌だった。絆創膏を買って手当をすると言い張るアタシを優しく見つめ、七瀬は昨夜行ったコンビニまで連れて行ってくれた。
 会計をしようとレジへ進んだ時だった。
「あの、すみません。昨夜ここへ来られましたよね?」
 眼鏡をかけた小柄な店員が七瀬に話しかけてきた。
「あっ、はい。煙草を買いにきましたよ」
 にっこり笑いながら七瀬が返す。
「そのぉ、昨夜来店された時に店内にいた男性が、お客様が出て行かれるのを見て、慌ててお会計をされて。お客様の後を追いかけるように出て行かれたのですが、お客様は既に車でお帰りになっていたようで。お気づきになっていましたか?」
「え?いえ。。。私達旅の途中なので、知り合いもいませんし。気づきませんでした」
 七瀬は昨夜のことを懸命に思い出そうとしている様子だった。
「その男性、お客様が立ち去られた後に再度入店されて……僕がトロイから見失ったとか言って喧嘩腰に僕に突っかかってきて。もう酔っぱらっていて手のつけようがなくて、やっと出て行かれたのですが、その後その男性が海で溺れて亡くなられたようでして。もしかすると男性のことご存じかと思いまして」
 アタシは一瞬にして全身に鳥肌が立った。今朝耳に入ったあの夫婦の会話のことだ。と同時に、また先日の大男の痣が目の前に浮かび上がる。七瀬は[亡くなった]と聞いた直後に、眉を悲し気に下げながら店員の話を聞いていたが、驚いた様子は見て取れない。
「なんてひどい……私は本当に知り合いもおりませんし、その男性のことも分かりませんが、亡くなられただなんて。。。心が痛みます」
 素直に心を痛めている様子しか伺えなかった。
「そうですか。まぁ相当酔われていて、僕も意味不明な言葉を投げかけられたので、とんだ迷惑でした。まぁ亡くなられたのは残念ですが」
 店員はピッと絆創膏をスキャンしてビニール袋に投げ入れた。
 店を出ると波音が聞こえる。七瀬は海の方を見ると、目を閉じて静かに両手を合わせた。アタシはそんな七瀬をじっと見つめていた。七瀬には今朝の夫婦の会話は聞こえていなかったのだろう。だとしたら、上がった死体の腕の痣のことも七瀬は知らない。アタシと同じことが頭をぎっているはずもなかった。もし聞こえていたとしても、あの夜放心状態だった七瀬が、あの大男の姿かたちを覚えている可能性は低かった。誰が死んだか分からない。が、その人物に祈りをささげる七瀬をそのままにしておこうとアタシもゆっくりと両手を合わせた。閉じた瞳の裏側に、闇に消えゆくルイの後ろ姿がかすんで見えた。
 亡くなった男の事故は、この港を去ったアタシ達の後ろで静かに幕を下ろしただけだった。


 いつも浜辺に降り立つアタシ達はこの日、真っ白な灯台のある広場から海を眺めていた。
「津軽半島の最北端。そしてあの辺りに北海道がある」
七瀬の指先を追い、目を凝らす。が、雲が重く、海上に薄くもやのかかった光景に北の地を見ることは出来ない。ただ、今自分が立つ地がどこか遠い国であるような気がしてならなかった。今まで見てきた海と何かが違う。海の色も香りも全く同じなのに。海の表情が違う気がして、これが七瀬の言う[陽介が感じ取れるもの]と同じなのかと考えたりもした。
「七瀬、陽介ってどんな人?」
 いきなり投げかけられた疑問に、七瀬は少し考えから口を開いた。
「優しくて、素直で、繊細で。動物や虫が大好きで、蜘蛛を見つけて嬉しそうに手を差し伸べる子。洋服が汚れてもお構いなしに土を掘り続けて、虫かごをいつも持ち歩いて。ダンゴムシが入れた箱から脱走して、大泣きしながら家中を探し回ったりしていたわ」
 陽介を語る七瀬の表情は柔らかった。
「臆病で内弁慶で、言葉にするのが下手で。。。それでも言葉に出来ないものを他人に感じ取ることが出来る子なの。だからこそ、自分の優しさとの間に心を痛めてしまうことが多かったんだと思う」
 陽介とアタシとは正反対だ。アタシは言葉にするのが不得意なわけではなかった。ただ言葉にすることを拒んでいた。親の前では余計なことを口に出すより、沈黙の方が暴力は早く終わる。人のことより自分を守るためにあえて感じず、考えずに口をつぐむ。人にも自分にも優しさを持つことで、自分がより痛むと知っていたからだった。自分自身への哀れみや、相手に対する淡い期待は、必ず自分を打ち砕いて来る。アタシはずっと聞きたかったことを意を決して口にした。
「なんで、なんで陽介は眠ったままになっちゃったの?」
 七瀬はゆっくりと瞬きをする。
「陽介の心がある日を境に壊れちゃったの」
「壊れた?」
 そう、優しさは時に己を壊すのだ。
「陽介は両親をすごく愛していたの。私も瑠偉も、陽介にはそのままでいて欲しかった……ただそれだけ」
 頑なに保守に走っていたアタシでさえ終止符を打とうとしていた。七瀬の語る陽介という存在が壊れてしまったことには納得がいく。が、何が陽介をそこまで追い込んでしまったのだろうか。
「なにがあったの?」
 深く考えずに聞いたことだった。陽介という存在を少しでも掴みたかったから。だが、七瀬から返って来た答えは陽介のみでなく、七瀬の背景にあるもの全てをも、一気に闇に丸呑みにしてゆくものだった。

「知ってしまったの……母が、父に殺されたことを」

 今まで過ごしてきた時間の中で、こんなにも七瀬が語ったことはなかった。というよりも、アタシが一言も発せずに、ただひたすら七瀬の話に耳を傾けていたことがなかったと言った方が合っていると思う。いや、アタシは一言も発することが出来なかったのだ。スイッチが入ったかのように表情を変えずに話し続ける七瀬。七瀬たちの母親は、父親によって殺された。それはただのプロローグに過ぎなかった。

 陽介、七瀬、ルイ。兄弟のなかで、母との時間のほとんどは陽介が過ごしていたという。陽介が小学校高学年の頃、大好きな母親が突然いなくなった。夫婦喧嘩が絶えず、失踪前夜も激しい口論をしていた両親。ハーフだった母が母国のアメリカに帰ったと父親から聞かされた陽介は、何の疑いもなく父の言葉を飲み込んだ。そして優しかった母親の帰りを待ち続けていたのだ。しかし中学に上がり、昆虫の研究課題を進めていた際に掘り起こした裏の森に見つけてしまった。父親が念入りに手入れをしていたサバイバルナイフが、失踪当時身に着けていた黄色のワンピースに突き刺さったままに、骨となった愛する母親を。七瀬とルイは心が崩れ行く陽介をそっとしておくことを選んだ。兄弟の中で父親に愛を示していたのは陽介ただ一人だったから。そんな陽介を無垢なままにしておくことが、三人にとっては唯一の生きるすべだったと七瀬は言った。幼い頃から美しかった陽介の容姿は父親のことを狂わせた。幼い頃から陽介は一人、父親の書斎に呼ばれては彼のおもちゃにされていた。だが、陽介自身は何も覚えておらず、母親の亡骸なきがらを目にする直前まで父親と素直に笑い合っていた。というのも、幼すぎて抵抗できない陽介を見かねた七瀬が、ずっと陽介の代わりに書斎へと自ら出向いていったからだと、詰まるような声を振り絞って教えてくれた。憎しみよりも、恐怖に痛み。それでも陽介を守ろうと必死だった七瀬。ルイもまた、そんな父親を二人から守るために必死で対抗していたらしい。父親の手を振り払い、噛みつき、床に叩きつけられても何度でも立ち上がる。小さな体を張りながら父親を阻止しようと、泣きながら抵抗し続けた。だが、結局は七瀬が書斎に引きずりこまれて重い扉が閉ざされるだけだった。
 繰り返される父親からの暴行を、七瀬は扉の奥で一人で背負い込んでいたのだろう。この時点でアタシは七瀬のトラウマがはっきりと掴み切れ、ここ数日間の七瀬の闇を震える頭の中で一つの線で結べていた。陽介が母親の亡骸を見つけ眠りに落ちた後は、ルイと七瀬が父親との時間を主に過ごすようになったという。ルイの反抗はエスカレートし、それに合わせるように父親の七瀬への暴行もひどくなった。が、陽介が深い眠りに落ちてしまった時、父親の目が二人に向けられるのは仕方がないことだったと七瀬はぽつりと言った。
「私と瑠偉は、陽介が知る前に父親が何をしたか知っていたわ。。。母が殺されるのを見ていたから。。。。でも、陽介には内緒にしておこうと決めたの。陽介が壊れてしまうのは目に見えていたから」
 ルイは両親の喧嘩を止めようと部屋を出た時に、父親が握るナイフが母の胸に突き刺さるのを見てしまった。母に駆け寄ったルイは狂ったように父親に殴り掛かり、高揚した父親が七瀬を起こし、母の血に染まったその手で七瀬を犯した。どれほどの痛みだったか想像するだけでも心が割れるような話。そんなおぞましい秘密を七瀬も瑠偉も、陽介から完全に隠し通した。翌日、母の居ない家で、陽介は笑いながら父に母の居場所を尋ね、父親の説明に笑いながら頷いた。

「ずっと知らないままで、陽介にはいて欲しかった。。。なのに、どうして見つけてしまったの。。。」
 話しを続けるほどに、七瀬が過去へと引きずり戻されていくのが分かった。アタシに語っているのではない。誰に話しているでもなく、ただ自らの記憶に吸い込まれているだけ。淡々と話す七瀬をアタシはさえぎることも出来ずに、七瀬が深すぎる沼まで落ちてゆくのを目の前で許してしまったのだ。
「もう話さなくていい!!!」
 耐え切れずにアタシは声を荒げた。目の前にあるのが海なのか空なのか、自分の涙のなのかさえも見分けがつかないくらいに、アタシの視界は灰色に包まれていた。七瀬の過去が土石流のようにアタシの中に流れ込み、アタシは上も下も分からない中で転がり、埋もれ落ちる小さな蟻だ。しゃがみ込み、両膝に顔を埋める。目から落ちる雫がじわじわとアスファルトに広がり溶け込んで行く様が、なぜか殴られた後に滴る血液のようで、アタシは異様な安堵感を感じた。何も考えずに殴られ、血が飛び散るのを確認することで、やっと終わりに近づいていると分かる、そんな安堵感。荒い呼吸を少しづつ、ほんの少しづつ整えていった。
 どれほどの時間アタシが蹲っていたのか分からない。が、顔を上げた時に、七瀬はアタシの目の前にしゃがみ込んでいた。
「ごめんスズ。私、こんな話をしようとしたわけじゃ……」
 アタシはどんな顔をして接すれば良いのか分からずに、咄嗟に七瀬から顔をそむけた。七瀬がこんなにも深く自分を語るとは想像もしていなかった。知りたいと望んだことを通り越した、とてつもなく大きな衝撃がアタシを飲み込んで行く。が、疑問を投げかけたのはアタシで、七瀬は何も悪いことはしていないのも分かっている。ただ、七瀬が語った真実を受け入れる心の準備が一切なかったアタシは、ドンと黒い穴に突き落とされた気持ちになってしまったのだ。七瀬はすっと立ち上がり、霧が舞う海に目を向けた。
「知らない方がいいことがあるって、私が一番知っていたはずなのに……ごめん。。。ごめん、スズ」
 七瀬はそのまま泣き崩れた。
 その後ろでアタシもまた泣いた。


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