エッセイ | 知っているという事と知らないという事。~シンガポール留学~
最近どういう訳かシンガポールで過ごした日々の事を思い出す。
ビルが立ち並び、明るい日差しが緑をキラキラと照りつける、あの活き活きとした街並みを。
大学2年生のときに、春休みの間という短い期間ではあったが、シンガポールに留学した。
留学した理由は至ってシンプル。
「何かが変わるかもしれない」
そう思ったからだ。
当時の私は大学生活にも慣れ、とにかく大学とアルバイト先の行き来を繰り返し、何となく時が流れていっていた。
そんな日々を過ごす中で、ふと「わたしの大学生活、こんなんで終わっていいの!?」と漠然とした焦りを感じ、とりあえず新しい経験をしたいと思ったのだ。
これまで海外旅行にすら行った事がなかったわたし。
留学というものに対してもちろん不安がなかったと言えば嘘になる。
ただ、程良い緊張感がシンガポールでの生活をより刺激的なものにし、ドロップ飴のようなポップな屋根の家々や、明るく清潔な街並み、既に先進的であるが今後より発展していくであろうその活気が、私の負の気持ちを吸い取った。
中国系、マレー系、インド系と多民族社会のシンガポール。(ちなみに公用語は英語)
様々な文化を持つ人が共存するこの国は、バスに1本乗るだけで街並みがガラリと変わる。
つい先程までビルが見下ろす街にいたかと思えば、ふと気づくとインド独特の建造物が立ち並ぶ。
一つの国でこんなにも違う国に行ったような気分になれるのは、シンガポールの魅了だろう。
もちろん宗教が異なるから、着るものだって人によって様々だ。
シンガポールの人々は、良い意味であまり周りを気にしていないように感じた。
「みんな違って当たり前」というのが根本的な考えとしてあり、なんだか「自分は自分。人は人」という感じがした。
きっとこの考えが文化や宗教を超え、共存出来ている理由なんだと思う。
当時の私は外見を着飾る事に必死だった。
もちろんそれは楽しくてやっていたし、今だって自信を身に着ける一つの手段だと思っているが、そういった表面的な部分を自然と気にしないでいられるその国の空気感は、私の心を軽くした。
とにかく私は一日一日を無駄にしたくなくて、一つ一つの出来事や瞬間を噛み締めた。
とても濃い日々だったから、全てをここで書き記すことは出来ないけれど、
この留学を通して感じたのは、「見た事がないものを見て感じる事、知らないことを知る事ってとても楽しい」という事だ。
シンガポールで過ごす日々の中で学んだことの一つ、
「様々な側面から物事や人を見て、判断するべきだ」
という考えはずっと胸に刻んでいきたい。
そんなの当たり前じゃん!!って思うかもしれないけれど、私はそんな当たり前を実際にきちんと理解していなかった気がする。
きっかけを与えてくれたのは、中国人の女の子だった。
毎日大学が提携している語学学校に通っていた訳だが、そこでわたしは自分に「内気な面」があることを痛感した。
基本的に初対面の人と話すのは苦ではないし、そこまで仲良くない人とも二人でご飯を食べることだってへっちゃらだった。
けれど、英語もまともに使えず、「言葉」という手段をなくした私は誰かに話しかけるという行為が全く出来なかった。
たまにどんな人とでもフィーリングで仲良く出来てしまう人は、根からの外交的な人だと思う。
ただ、そんな私に彼女はとても親切にしてくれた。
「How old are you?」
と簡単な英語で、教室に一人でいた私に最初に話しかけてくれたあの瞬間を、きっとこれから先も忘れないだろう。
正直、私は中国に対してあまり良いイメージを持っていなかった。
というのも、日本でマナーをきちんと守れていなかったり、大声で騒いだり...なんて中国人を多く見かけていたからだ。
けれども、彼女はとても謙虚で努力家で品があった。
もちろん「中国人」というのは彼女のアイデンティティだと思うけれど、「中国人」という一塊で見るのは何となく違う気がした。彼女は彼女なのだ。
日本人だって100人いたら個性や価値観は100通り。
だからこそ、単なるイメージで何事も決めつけるのは違うし、どんな国の人であっても「その人自身」を見る事を心掛けていきたいと思った。
「中国人だから常識がない」
私がそんなイメージを抱いてしまっていたように、日本で日々を過ごす中でも、勝手なイメージで物事を判断しないように心掛けていきたい。
例えば
お金を持っている人は、必ずしも偉い人なのだろうか。
地位や名誉がある人は、それだけで成功した人生と言えるのだろうか。
結婚する事が必ずしも満たされた人生なのか。
学歴があったら、それは働く上で生きていく上で、賢い人という事が必ずしも保証されているのか。
どんな人、物事においても、「その人」「その事」そのものをきちんと見極める力を身につけ、常に多角的な視点はもっていたい。
帰国の一週間前、あまりにもまだまだ行ってみたい場所、見てみたい物で溢れていて、とにかく後悔のないように、一人バスに揺られて足を運んだ。
全てが「初めて」の景色で、馴染みのない言葉が飛び交う街を一人で歩くとき、心が震えた。
私はこうして、自分の意志でこの国に来て、この地を歩いている。
誰も私の事を知らないこの場所でも、ちゃんと息が出来ている。
そのことが心の底から嬉しかった。
自分の行動次第で、どうにでもなるこれからの未来に胸がいっぱいになった。
今思うと、社会をまだ知らない大学生だったからこそ抱いた感情だったと思うけれど、私はその時の気持ちをこれからも大切にしていきたい。
この世界には知らない事で溢れている。
私にはあまりにも知らない事が多すぎて、たまにクラッとなるけれど、知らない事があるから人生ってきっと楽しいのだと思う。
大袈裟だけど、知らないという事は希望や可能性という言葉に近い気がする。
そして知っているという事は、強さという言葉に近い気がする。
ここでいう強さとは、わたしの中で様々な意味合いがある。
例えば相手を思いやれる強さ。(自分が強くないと、人に優しくなんて出来ないよね、きっと)
自分の考えを提示する強さ。
状況に応じて言いたいことを飲み込む強さ。
憂鬱な瞬間を乗り越える強さ。
その時々で、知ったこと、感じた事はそのまま自分の血や肉となり原動力になる。
知っている分、物事を広く見る事が出来、また一つ強く大きくなる。
知っている事と知らない事
この二つは相反するものであるけれど、どちらも私にとって大切だ。
肩掛けのカバンの紐を両手でぎゅっと握りしめ未知で溢れた場所を歩いた経験が、私に知らないことへ立ち向かう楽しさと、知ることへの充実感を教えたのだ。
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