めんどくさいの向こう側
人間の脳ミソが、ドンドン退化しているかもしれない。
数年前から、そう思うようになった。
たとえば、大衆の娯楽であるお笑い。
ひと昔まえは、みんなが落語を聴いた。
マクラから始まり最後のオチを聴くまで、落語家が一人で何役もこなしながら物語の世界を繰り広げる。その会場にいる人は全員、頭の中で情景を思い浮かべ、笑った。
時代が流れると、漫才ブームとなった。これまで一人で何役もやっていた落語から、二人それぞれが『ボケ』と『ツッコミ』に分かれ、ストーリーを展開する。役どころが分かれているから、当然落語よりも理解がラクになる。
さらにコントも生まれた。
しゃべくりだけでストーリーを理解していた漫才から、ネタのシチュエーションを見ながら、視覚的にも理解できるようになった。
時代が流れる毎に、テレビも変わった。芸人さん1組に与えられる時間はどんどん短くなり、1分間でネタを披露する、いわゆる一発ギャグのようなものが流行った。一発ギャグはインパクトだけの話で、そこにはもはや落語を聴いた時のような『理解脳』は必要ない。
落語から漫才、コント、1分ネタへのブームの変遷を見ていくだけでも、大衆がドンドン脳ミソを使わなくなっているのがわかる。
SNSも同じだ。
インターネットが普及した当初は、芸能人はホームページを作ったものだ。ホームページにはボタンがあって、プロフィールやギャラリー、バイオグラフィー、出演情報などがあり、その中の一つにダイアリーがあった。
ダイアリーをクリックすると、時々記事が更新されていて、写真と一緒に文章を読み、楽しんだものだ。
少し経つと、ホームページから日記だけが独立したブログがブームになった。これまで整理整頓されていたボタンはごちゃ混ぜになり、ざっくばらんに書いた記事は更新される毎に下へと下がり、垂れ流し状態になった。
さらに時代が流れると、Twitterが流行る。
これまでブログでは文章で書かれていたものが、短く呟くだけになった。
そして今や、インスタの時代だ。
もはや言葉など必要無く、いかにインパクトのある写真を載せるかだけで勝負をする。
新しいものが出るのは良いことだ。
別に、ホームページが良くてインスタが悪いなんて言いたいわけではない。それぞれに良さがあり、私も全てのSNSを楽しんでいる。
お笑いに関しても、私は落語も聴くし、漫才やコントだって大好きだ。
しかしながら、世の中がどんどんラクな方に流れていることに関しては、危機感を覚える。
たまには落語を聴いてみようよ。
たまには文章をしっかり読んでみようよ。
たとえばパソコンでは無く、鉛筆で文章を書いてみるだけでも、いかに漢字を書けなくなり、送り仮名を忘れていることに気付くはずだ。
むかし、ある偉い人から言われたことがある。
『ラクな時は、下っている。しんどいのは、上っているからだよ。』
これは私が仕事で悩んでいたときに頂いた言葉だが、何にでも当てはまる気がする。
たまには、敢えて『めんどくさいこと』をやってみる。『めんどくさいこと』の向こう側には、きっと違う景色が待っているはずだ。