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リスロマンティックについて。

唐突に、秋がやって来て。

そして唐突に質問です。

リスロマンティックの人に告白されたことはありますか?

リスロマンティックって、何?
とか、そんな人何処にいるの?とか。
まずはそう思うかもしれませんが。

私もね、まったく気が付かずに…というか、気がつける訳もなく。
まさかまさか…このブログを読んで下さる方に「その時」が来てしまったときのために、書き記しておこうと思います。

リスロマンティックとは…リスロマンティック(Lithromantic)とは、アコイロマンティック(akoiromantic)やアプロマンティック(apromantic)とも表現され、「相手に恋愛感情を持つが、その相手から恋愛感情を持ってもらうことを望まない」または恋愛感情を持ったその相手からの愛情表現に嫌悪感を持つ場合もある性指向、恋愛感覚を持つ人を意味します。

出典は特になし

私に起きたことはいまから5年ほど経過してるかと思います。ですが、表面上に出て来なくても、記憶鮮明なついこの間まで痛手を引き摺って居たようなそんな気もします。その気持ちは、傷が癒えていなかったというよりどちらかというと、どうしてそうなってしまったのだろうという整理がついていなかったのだと思われます。

急に頭の中の整理がついたのは、所属している小樽プライド委員会の主催するLGBTQ+カフェでの性的マイノリティに関する勉強会に参加するようになったことが大きく影響しています。

リスロマについて考察があったわけではないのですが、勉強会では多くの文献を掻い摘んで紹介してくれたり、
自分の感じた事を話したり、意見を交換することで性的マイノリティについてや、多様性についてとても理解が深まると感じています。

なので直接考察したことではなくとも、性的少数派との間で起きたことについて、とても冷静に、心の整理がついたのは、自分以外の人びとの多様性を学ぼう、それが必要なんだ、そういう気持ちを持てたから。
人の気持ちに寄り添いたいと思ったり、これ以上傷付けることの無いように理解したいと思った者が能動的に動いた時に、多くの事について解決の糸口が現れるのだと。本当に本当にそう思うのです。

私自身が性的マイノリティであっても、自分と同じ性的マイノリティの方についても個人に確認しなければ決めつけることなど何一つできない事を上げれば、誰もが性的少数派でもあり、そのセクシャリティを肯定する場合立場としてはアライであるとも言えるのです。

私はゲイではないけれど、ゲイの方々の生き方をサポートするために活動しているゲイのアライであるとも言えるのではないかと思っています。

本題に戻りますがここで混同しがちなのは、性指向と性自認。それは全く別の角度であるということ。そしてリスロマンティックというのは恋愛感情と性指向が結びつかないという特異の性質であるということで、ここが私がドツボにはまる原因であったと言うこと。

3年間程、ほとんど毎日と言って良いほど、一緒に居た仲。

ある日、振り返ってみたらサシで飲んだこと無かったね、ということで飲みに。

あろうことか、ずっと好きでしたと。

あ、でも明日からも昨日までと同様でよろしくお願いします。と…

だったらなぜその胸の内を口にしたんだと問いた所、
言ってもスルーされて終わるだけだと思っていたんで、と。
だとしたら余計言うなよ…と謎が謎を呼ぶだけでした。

言うても私、割とイイ男系なもんで(そうでもない)
恋する乙女心を無下にはしたらいけないと思ったりなんかしたりして。何か応えなくてはともがき苦しんだ訳で。

でも、ことあることに言われるのは
片思いのほうが美しいとか
秘めた心であるほうが世界が守られるとか
呼ばれたらどこでも駆けつけますとか
ほら私師弟関係に弱いんでとか
そのままでいて下さいとか…
プラトニックなだけで良いんですと。
(今なら理解できるけど)
恋心を盾に茶化されているだけ、翻弄されてるだけで
どうにも成されない…全てが宙に浮いたままのその状態に耐えられなくなっていました。

とはいえ、お互い既婚者であった当時。

同性でもあり。

ね、だから。ほらね。と、言われる言葉通りどうにもなりえ無かったことで、相手の望み通りなんの変わりもなく日常は過ぎていきました。

笑いのツボも一緒、誰よりも気負う事なく話せて、お互いのスキルにもリスペクトがあって。毎日いても飽きることが無かった。

それが告白によって壊れた(と、勝手に思い詰めていた。)

深く関わっていたと思っていたのに、互いに理解しえていると思っていたのに、さっぱりわからなくなってしまったのでした。(5年前。)

いや、わかりあえていた部分やリスペクトしていた部分は、その人を形成するほんの一部であって。そこまでの理解しあえる仲だったからこそ、その先にある深い部分を伝えてくれたのだと(いまはわかる。)

私自身は元来、人のセクシャリティを勝手に探ることなど全くしない、根本からそれを壁とも思っていないので知る必要性がないとさえ思っていて。
それと同時に自発的に話してくれたら聞いて、できるだけそのままを受け止めたいとも思っている。

その人のセクシャリティはその人を形成するほんの一部の事柄であって、どんな子供時代を過ごしたのかとかいまどんなことに夢中なのかとか、日常ではその様な普通の事柄と大きく違いは無い事だと思っています。
(国や法のもとについては大きく差別があるという問題とは全く別の次元の話。)

好きですという言葉に込めた、その心はカミングアウトであっただけということだと、今ならわかるのです。
それが私の稚拙な思考によって、目の前にいる人の尊厳を傷付けてしまった。それを自覚し、悔やむ時が来たのだと。

たったひとつだけ、5年前もいまも思うのは。その告白は思いもよらなかった事であったとはいえ、とても嬉しかったことを覚えている。何が嬉しかったのかということは、ふわっとしたものであるけど。きっと恋心というピュアな贈り物をくれた事にありがとうという気持ちだったから。

心を開いてくれた事、同じ目線に立てなかったこと、夕立が来そうだから帰るねと言われたあの日を。

きっといつまでも傷付けて傷付けられた事を、忘れないだろうといまもそう思っている。

夕立が来て、泣きながら書きなぐった言葉たちはそのうちまとめて日の目を見せよう、そうしようと決心したこともここに記しておく。

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