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『エブエブ』を仏教的に観たら、ダークブッダとライトブッダの戦いだった

こんにちは。秦ショウケンです。浄土真宗のお寺に生まれて、今はベンチャー企業で働きながら、大学院で浄土真宗の研究をしています。

遅ればせながら、今年のアカデミー賞作品『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(通称:エブエブ)を見てきました。

本作は、先に観てきたお坊さんの友達に「ありゃ仏教だよ。」と言われていたので、どんな映画なのか楽しみだったのですが……確かに仏教でした。

根底に流れるのは縁起思想

そしてクライマックスのシーンは、ダークサイドに堕ちたダークブッダと、人間が持つ希望の光を信じるライトブッダの激しい戦いだと思いました。

めちゃくちゃ感銘を受けたので、もちろん制作者は仏教映画として作っていないと思いますが、映画はどう受け取るもの自由!ということで、仏教的に読み解いた本作の解釈を書いてみたいと思います。

※内容のネタバレを含みます。

縁起について

本作の世界観は、仏教の縁起思想と通ずるところがあると思いました。
考察の鍵となる概念なので、まずは縁起について簡単に説明しておきます。

縁起とは、仏教で最も基本となる世界の捉え方のことで、「すべての存在は、無数の因縁(関係性)が網目のように織り重なって成立している」と捉える概念のこと。
あらゆる存在は、大きな関係性の中で成り立ち、それは常に移り変わり固定的なものはない(諸行無常)。
その大きな関係性の中には当然自分も含まれていて、自我というのも因縁によって織り上げられているだけで、普遍のものはない(諸法無我)。

仏教では、世界をこのように捉えます。

過去の因縁によって、今があり、今この瞬間ごとに生み出した因縁が、未来を創っていく。

これが縁起の考え方です。
この縁起のものの見方に沿って、ストーリーを辿っていきたいと思います。

悪い業を生み出し続けてしまうエブリン

まず冒頭のシーンから。
とにかく忙しそうにしているエブリンは、夫のウェイモンドが大事な話をしたいと話しかけても全く聞く耳を持ちません。
レズビアンの娘ジョイはパートナーを家に連れてきますが、あからさまに冷たい扱い。祖父にはただの友達だと紹介します。
傷ついてその場を立ち去ろうとするジョイに対してエブリンは、どうしても謝りの言葉が出てこず、「太り過ぎだから食べるものに気をつけなさい」と心無い言葉をかけて、ジョイとの間にさらに深い溝を作ってしまいます。

この冒頭のエブリンは、先ほどの縁起の考え方で見れば、悪業(悪い因縁)を生み出し続けてしまっている状態と言えるでしょう。悪業は、自分にも周りにも悪い影響を与えてしまいます。
人生の負のスパイラルといったところでしょうか。

マルチバースは可能性

そんなエブリンは、別のマルチバースからやってきたアルファ・ウェイモンドに、他のマルチバースにいる自分にジャンプする技術を授けられます。

そうして様々なマルチバースにジャンプし、別の世界の自分から能力を借りていくことになるのですが、別のマルチバースには、様々な形で"成功"している自分がいました。その中には、夫と結婚しない選択をした自分も。

マルチバースにジャンプする際は、スマホ状のデジタルデバイスにさまざまな別の自分がいる世界が表示され、都度必要な世界を選んでジャンプしていきます。
印象的だったのは、ジャンプする際の描写です。ある世界を選んでジャンプすると、デバイス上に、人生の大きな決断の分岐が枝分かれ上に表示され、あみだくじのように、その世界の自分がどんな選択してきたを辿っていく描写が出てきます。

これは、人生でどんな選択をするかによって、その先の人生が大きく変わっていくメタファーだと思いました。

仏教の縁起的世界観でも、自分に無数に働きかけられる因縁を、どう選んで掴み取っていくかで、未来はどうとでも変わっていくと説かれます。

マルチバースの概念は、そんな人間の無限の可能性を示してくれるものとして描かれているのかなと思いました。

全てを悟ったものたち

さて、この映画の中心となるのが、母エブリンと娘のジョイの関係です。
別のマルチバースでは、ジョイはマルチバース全てを破壊しうる理を超えた邪悪な存在「ジョブ・トゥパキ」になっていました。

ジョブ・トゥパキはすべてのマルチバースを自在に行き来でき、物理法則に逆らう超常的な動きができる恐るべき存在。
ただ、彼女は悪役として描かれていますが、いまいち目的がはっきりとしません。明確に悪意があるというより、この世界の全てを知り、この世界の全てに失望しているように思えました。

ジョブ・トゥパキは、少しブッダに似ているなと思いました。
ブッダは元々とある国の王子として生まれ、何不自由ない暮らしをしていました。ある日城の外に出たとき、病や飢え、老い、そして死にゆく人々の姿を目の当たりにしたことがきっかけで、自らの在り方に疑問を覚え、修行の旅に出ます。7年の修行の月日を経て、ついに悟ったのは、この世界の真実の姿でした。
どんな世界の姿か。それは「この世は、一切皆苦である。」ということ。
生老病死。生まれた瞬間から死ぬまで、苦しみに満ちた世界を生きるのが人間だと言ったのです。
生まれる場所や時代は選べないし、全員が死からは逃れられません。いつかは必ず、病んで老いて死にゆく存在です。それなのに、人間には煩悩があります。何かを手に入れたらもっと欲しくなるし、自分のことばかり大事にしてしまうし、自分が認知する世界が正しいと錯覚して、物事をありのままに見ることができません。
そうした現実を「一切皆苦」と表現したのでした。

ブッダはそれで終わらず、じゃあどうすればこの苦しみが無くなるのかの道を示しました。
そこで、先に述べた縁起という世界の捉え方が出てきます。
世界と自分の在り方を正しく理解して、正しい行動をとっていこう、というのが仏教の基本線です。

悟ってそこで終わらない。ここは、ジョブ・トゥパキより、ブッダが一枚上手ですね。

話が少し広がりましたが、ジョブ・トゥパキは、あらゆる世界をみて、この世界は一切皆苦であると悟り、絶望していたのではないでしょうか。

それでも母のエブリンだけは、自分を理解してくれる。そう信じて、エブリンに接近するのでした。

仏教映画ではないので完全には付合しませんが、やはり仏教と通じる部分があるように感じます。

菩薩のように慈愛をむけ続けていた夫

物語の後半、エブリンはジョブ・トゥパキと接触する中で、娘を理解するために、彼女と同じ道を辿ろうとします。
マルチバース間をジャンプしまくって、ついにジョブ・トゥパキと同じように、あらゆる世界を行き来できるようになりました。その中には、生命が生まれず、石として生まれた世界も。

石になった境地のシーンは個人的にグッときました。石は動けないし、何もできません。でも何もできないからこそ、物事の本質に近づいていく。そんな姿が描かれていました。

さて、石となった境地も含め、あらゆる世界を体験したエブリンは、ジョブ・トゥパキと同じように、世界のありようを悟ります。
そして彼女に唆されて、一時は破壊衝動に駆られます。それぞれのマルチバースで成功していたのに、自らそれを壊すような行動を取り、瞬く間に自分の地位が揺らいでいきます。
それは夫のウェイモンドに対しても同じで、元いた世界では離婚届に判を押し、結婚しなかった世界ではかえって誘惑をし、戦いの中心になっている世界ではウェイモンドを刺してしまいました。

なんでことだ。このままエブリンもダークサイドに堕ちてしまうのか…?

そこで闇堕ちしかけたエブリンを引き戻したのが、ウェイモンドでした。
ウェイモンドは、どの世界でも、全く変わらずにエブリンに愛を向け続けていたのでした。

そんな光景を見て、エブリンは、ウェイモンドからずーっと注がれていた慈愛の心に気づきます

いやはや、親鸞聖人だったら、ウェイモンドは菩薩さまだったのか!と仰いだことでしょう。

全く気づいていなかったけど、ずーっと注がれていた慈しみの心。それに気づけたとき、人は苦しみから救われるのだと思います。

夫からもらった善い業を他に向け始めるエブリン

シーンは終盤に差し掛かってきます。
黒いベーグルと呼ばれるブラックホールのようなものを巡って、
エブリンと共にベーグルに入らんとするジョブ・トゥパキ、それを止めようとするエブリン、ジョブ・トゥパキを一人でベーグルに入らせようとするアルファ・バースの面々、の三つ巴の戦いに突入していきます。

ベーグルというのは、この世界の輪から離脱することを意味するのかなと思いました。

このシーンで印象的だったのが、これまでカンフーやカンバンを振り回すパフォーマンスなど戦闘力を得て、力で相手を打ちのめしてきたエブリンが、「今度はあなたのやり方でやってみるわ。」と、ウェイモンドがこれまで周りを幸せにしようとし続けてきたように、優しいやり方で相手を止めていくところ。

ウェイモンド愛用のグルグル目玉シールを飛ばしながら、立ち合う相手の悩みや困りごとを看破し、それを取り除くことによって相手を戦意喪失させていくのです。

なんということでしょう。これはまさに、仏教の基本姿勢である「抜苦与楽」を体現していると思いました。
慈悲の心を相手に向けて、苦しみを抜き、楽を与えていく。まさに悟りを得んとする菩薩の姿です。

この慈悲の心は、ウェイモンドから注がれたものでした。
ウェイモンドから慈悲の心を受け取ったその瞬間から、悪業を生み出し続けてきたエブリンは、他者の苦しみを取り除こうとする善業を生み出す存在へと生まれ変わったのです。

ダークブッダvsライトブッダ

そしていよいよクライマックスシーン。
この世は全て苦しみであると悟り、「世界に絶望し一人闇に沈もうとするジョブ・トゥパキ」 vs 「この世は全て苦しみであると悟りながらも善い縁を自ら作り出すことで世界は変えていけると悟ったエブリン」の戦いです。

まさにダークブッダとライトブッダの戦いです。

苦しいことばかりのこの世界の因縁から、ベーグルに入ることで解脱しようとするジョブ・トゥパキ。
彼女にとって、唯一の希望は、母エブリンでした。

そしてまさにダークベーグルに吸い込まれんとする時、エブリンは全力でジョブ・トゥパキを抱き止め、ウェイモンド、そして父のゴンゴンも続きます。まさに家族が団結し、ジョイを救おうとします。

ただ一人でも、愛そう

そこでシーンは現実世界へ。母と娘の対話の場面にジャンプします。

いろいろな経験をして、ウェイモンドからの慈愛に気づき、生まれ変わったエブリンは、「生きていても、本当に意味のある時間なんてほんのわずかしかない。」というジョイに対して、「ならそのわずかな時間を大切にしよう。」と言います。
それに続けて、「私はあなたと一緒にいたい。」と伝えるのです。

そうしてついに、エブリンの愛がジョイに届きました。二人は熱い抱擁を交わし、ジョイ/ジョブ・トゥパキは、ダークベーグルから解き放たれたのでした。


宇宙は想像できないほど大きく、私たちはちっぽけです。自分は世界のほんのわずか一部でしかありません。それを受け入れることが、悟るということです。

だけど、それでも生きています。ちっぽけだけど、何かはできます。

私たちにできること。それは、誰かに愛することなのではないでしょうか。そしてそれを受け止めるということなのではないでしょうか。

一切皆苦の世界で人が生きていくためには、それこそが唯一の救いの光となるのではなるのだと思いました。

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」
なんでも、どこでも、たちどころに一斉に。

この言葉は、人間の可能性を示した言葉なのではないかと思いました。

はじめは自分の不幸を嘆き、悪い業しか生み出せていなかったエブリンは、無数のマルチバースの自分を通してこの世界の本当の姿に気づき、一時は絶望します。
しかしウェイモンドから向けられ続けていた慈愛を受け取ったことで、突如として悪業から善業を生み出す存在へと転換していったのです。

それはまさに、「人はなんだって、どこへだって、今この瞬間から変わっていける」というメッセージなのではないでしょうか。

ウェイモンドからエブリンに。そしてエブリンからゴンゴン、ジョイへと伝わっていったように、自らの善い行いが、相手へと伝わり、相手を動かし、それが世界を変えていくことにつながるのです。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、荒んだ世を憂いて
「世の中安穏なれ。仏法広まれ。」と語りました。

この言葉も、まさにそうした善い縁の循環のことを言っていたのではないかと、改めて受け止めることができました。


『エブエブ』は、アカデミー賞映画であり、また仏教映画であり、そして世界平和の映画なんだと、僕にはそう受け止めずにはいられません。
この映画が公開された時代に生きられてよかった!


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