歴史小説「Two of Us」第4章J‐20
~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country
J‐20
17世紀初頭からの、細川忠興の足跡について特筆すべき事柄は、多彩で奥深い道へのクリエイター活動である。
明治時代以降に、ヨーロッパの文化を輸入したために【逆輸入】で細川ガラシャの認知度が日本国内でも上昇した。
だけれど、それまでは三英傑の片腕を担い、勝ち続けた闘将の『肥後もっこす忠興』人気が大きく、また限りなく深すぎるガラシャ珠子への愛情エピソードばかりが取り上げられていた。
本当の所は、忠興(細川三斎)の芸術センスやモノ造りマインドを、海外見聞で逆輸入し、伝統として九州の地に定着させたのは、江戸平定後も生き延びて寄り添った、他でもないガラシャ珠子自身の功績だったのではないか。。。
細川ガラシャとして、パートナー忠興の美意識やクリエーターとしての才能に、改めて惚れこんで、外国語(ラテン語由来)に通じていた傍に寄り添う者として海外へ輸出品と共に送り出していた感が、強いのだ。
18世紀フランスのルイ16世の后妃、マリー・アントワネットが愛したオペラ歌劇は、『まことに強きタンゴの女王、グラッツィア。その波瀾万丈の生涯』 というタイトルで、まさに細川ガラシャの生き方をリスペクトしていた様子。
伝統的な南蛮(南ヨーロッパ)デザインの『ペイズリー柄』や『馬蹄柄』を外出着の上物に取り入れ、日本刀の包布に『レジメンタル柄』を使ったのも、関ケ原合戦以前からのことで、キリシタンに成る事は断固避けていたが、欧米文化的美のセンスは存分に発揮している。
古くは、戦闘用の甲冑(ふた割れ越中)や下着(越中ふんどし)等もデザイン監修しているが、イタリアン・デザインにも通じる実用的な機能美と、無駄のない美しいフォルムを崩さず、高度な質感を保つ京都の雅センスが、融合している。
【細川ガラシャを欧米人が知る ≒ 細川忠興のクリエイティブ活動を知る】
こんな図式が、資料や遺品から受け取られたのだ。
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