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繊細さんは敵だらけ

 心がシクシク痛む。かがみ込む程はないダメージだから、まだ歩ける。そう思って歩き続けていたら、それが当たり前の歩き方になってしまう。

 私のこれまでは、そういう歩き方だったんだろうな、と思う。40代になって我が子が繊細な子どもだと気付き、自分自身もそうだと知った。私の心の傷は気のせいなんかじゃなかった。これからは「痛いよ」って言ってもいいんだ。そう認められた様な気がして、安心した。
 誰に認められたのか、それはきっと自分自身。他の人が言われても笑っていられる言葉でも、自分に向けられた時に胸が痛む。だから私の考え過ぎで私が悪いんだ、って思っていたけど、やっぱりあれはちゃんと傷なんだ。

 繊細な人間として胸張って生きていこう、と思うのも束の間、そういう視点に立つと私たちの日常は暴力的な言葉がひっきりなしに飛んでくる矢の中を歩いている様だ。当たらない様に歩くのは困難。

 先生をしていると、他のクラスの先生が生徒のことを「この子は意思表示しないから」と言っていた。本当かな。その子は決まり悪そうに隣で笑ってるけど、先生のタイムリミットとその子のスピードが違うだけなのかも知れないのにな。その子がその呪いの様な「意思表示しない(自分)」っていうのを将来まで持っていかないことを祈る。
 ある先生は急に大声を出す。それを見て笑う子もいれば、怯えた様に耳を塞ぐ子もいる。私は後者。流石に仕事中だからと笑顔で立っているけど、ほら、またピシピシッと小傷。
 ある子は他の子の背が低いことをいじる。その子は泣き笑いみたいな顔でいるけど、私は心で泣きそうになる。

 デリカシーがない言葉が多いし、面白いとか盛り上がると思う言葉は相手のためのものではなく、意思疎通のためのものでもなく、発する人だけの自己満足。

 こんな世界と自分なりの距離を持つのが、今の私の一番心地よい在り方。私と同じ様なふんわりした人と親しく交わる日々。私は柔らかい世界で生きている。子どもの頃は「社会にはいろんな人がいるから」と明らかに相性の悪そうな人とも一緒にいなきゃいけなかった。
 でも大人になってみたら、人との距離感は調節できる。むしろ「人と一緒に行動しないと」って思い込みの方が怖い。友達100人作ろうって頑張る方が怖い。

 人との距離感とか、自分のペースとか、されたら「嫌だよ」って言えることとか。そういう自由があれば幸せ。そして一番の幸せは、「それは辛かったね」とか「よく頑張ってるね」って寄り添ってくれる人の存在。スローダウンして自分を大切にほんわか生きていたい。


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