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別に英語出来んでもいいし

 小学校で全国的に外国語活動という名の英語活動が始まった2011年。私も小学校で英語指導に携わり始めた。その時よく耳にした言葉が、これ。

「別に英語出来んでも生きていけるし」

 あれから10年。それを言う子どもたちが減ってきた様に感じるのは、おうちの方や周りの大人たちの意識の変化だろうか。確かに日本は「日本単独でも生きていける」というなんだかイキった雰囲気から「世界の中の日本」色が強くなってきた気がする。世界ではなく飽くまでも日本国内の「お偉いさん」からの流れで風の吹き方が変わるっていう流れは変わっていないけれど。それでも自主的に日本から世界を見る人たちも、確実に増えてきた気がする。

 この10年で、今まで当たり前とされていた日本の常識みたいなものが、どんどん崩れ始めた。SNSの広がりによって多様な考え方が浸透してきたのかも知れないし、それに押される様にジェンダーの問題や校則問題などあちこちから噴出している。私はこれをとても好ましいことだと捉えているが、同時に自分の中に植え付けられてきた「差別意識」に気付き愕然とすることも増えた。自分は差別なんて絶対に違うと思っている。人は平等。そう言いながら、幼い頃に大人に聞かされてきた言葉は

「うまくいかない人は、頑張っていない人」
「やれば(誰でも)出来る」
「お料理上手は幸せなお嫁さんになれる」
「あの人、外人なのに日本語上手やね」

など、どれも前向きで優しい口調で語られるのに、よく見たら人にとんでもない無理を強いる言葉のオンパレード。その片鱗を自分も持っていてそれが「当たり前」過ぎるから見えなくなっている、ということに恐怖を覚える。  私の世代の人たちは、その葛藤の中にいる。自分の中に植え付けられたものと、自分の子どもに生きて欲しい幸せな未来。その中で絶対に止めるべきなことは、「ただ従う」こと。「それは正しいか」と常に自分に問い直すこと。その中で「英語という望遠鏡を持たせたい」という意識なのか、最近おうちの方から私に寄せられる希望は「試験に合格したい」という物理的なものよりも「子どもに希望を感じて欲しい」「励まされる経験をたくさんさせてあげたい」と、なんだかこちらも英語教室に通わせる「当たり前」の概念が変わりつつある。

 この時代を継承してきた罪滅ぼしに、私は英語を教えている。世界のいろいろな考え方や疑問は、日本語の記事や番組よりも英語を通して見た方が遥かに多種多様。なぜなら日本語のフィルターを通っていないから。
日本語のフィルターを通ると、どうしてもそれは「日本の文化」の色が加わる。せっかく新しいことを知ろうとしても、結局「日本」のフィルターを通っている以上私たちは新しい考え方をダイレクトに知ることは難しいのだ。 

 「英語がなくても生きていける」かも知れないが、英語を通して世界を見ると混じりっけなしの世界が見える。そして、多くの生き方や考え方に触れることで、自分に一番合うものを選ぶことだって可能なのだ。
英語を一生の内で一言も話さなかったとしても、英語の文字を読む必要がなかったとしても、日本語以外の言葉があって、そこには自分が知らない考え方や自分が触れてこなかった風が吹いているんだ、と感じることが出来たらきっと人生はもっと自由に豊かになる。
そう信じて、私は英語の先生をしている。

 世界は広い。英語がなくても生きてはいけるけど、日本語だけの世界しか見ないのはもったいない。だってあなたたちには、もっともっと広い世界と多くの選択肢があるんだから。進路や成果じゃなくて、生き方、考え方の選択肢や情報は多い方が楽しいじゃん。
 物理的に目に見える成果を求める大人に対して子どもたちは「別に英語出来んでも生きていけるし」と応戦するが、そんな大人たちの「当たり前」を越えて世界を見て欲しいと、私は願っているのだ。

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