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発信はトイレから

 定期的に何か書いたりyoutube動画を作っては発信している私に、友人たちは「よく発信しようって気になるね」と感心しているのか、呆れているのか。確かに私自身は「これは良い」と思ったら人に伝えたくなる性分の様。でもそれをわざわざ「発信する」という一手間もふた手間もいる様なことがなぜ出来るのか、と言われると確かになぜだろうかと考える。
 日本の教育でも、これからは「数ある情報の中から自分に必要なものを抽出し、その内容を読み取り自分の中でしっかり理解して、それを新たな情報として発信する」ことが求められる時代。
 その「発信」について考えてみた。

実家のトイレ

 今も実家のトイレには以下の様な母の手書きの紙が貼ってある。

一、乳児はしっかり肌を離すな。
一、幼児は肌を離せ手を離すな。
一、少年は手を離せ目を離すな。
一、青年は目を離せ心を離すな

アメリカンインディアンの子育て四訓らしいが、おそらく母は出どころを知らないだろう。

 こうして自分が心に留めておきたいことや、さりげなくシェアしたいことを母は実家のトイレに貼っていた。それは「あいうえお五十音表」や「九九の表」...と、私たち兄弟の成長と共に変わっていく。そしてある時から私たちも「もうすぐ都道府県のテストがあるから」と都道府県の表を貼ったり英単語を貼ってみたりと、トイレの壁を活用し始めた。

 やがて私は家族のあれこれや自分が知って面白かったことを壁新聞にして、トイレの壁に貼り始めた。家族から特別感想をもらうということも期待しなかったが、みんなが必ず入る場所だからみんな読んでくれているんだろうと想像してワクワクした。

 大学生になった時、所属していた軽音部の壁に「タフマン通信」と名付けた壁新聞を勝手に貼っていたのも私。暇な時部室で自分の好きな音楽やあれこれを新聞風に書いてはせっせと壁に貼っていた。誰も見ていなかったかも知れないけど、誰か見ているに違いないと思い込んで勝手にワクワクしていた。

トイレは世界

 結婚して家族が出来た。トイレの壁紙は何色にして...と相談して決めたトイレ。壁に何かを貼るなんてもったいない、としばらくそのままにしていたトイレの壁にも、やはり私が貼り紙を始めてしまった(習慣って怖い)。
子どもたちが読むと良いな、と子どもたちが幼い頃からとっていた「子ども新聞」。幼い頃こそ一緒に読んだりしていたが、小学生になると子どもたちも他のことに割く時間が多くなり、新聞から遠ざかってしまった。
 そこで、新聞の中から私が特に面白いと思ったコーナーなどを切り抜いてトイレに貼り始めた。時には頭の体操クイズ、時には国際問題、いじめ... 子どもたちの目に触れると良いと願って貼っていたが、時々夜の食卓でその話題になったりするから、きっと見ていてくれたのだろう。
 もちろん、子どもたちが苦戦している算数の問題や漢字なども貼った。中高生になると子どもたち自身もトイレの壁を有効利用し始めた。

 そして現在のトイレがどうなっているかというと、それぞれの子どもたちの好きなアーティストの作品の歌詞が、それぞれの子どもの字とテイストで貼ってある。洋楽の歌詞が英語で、Kpopの歌詞が韓国語で、好きな本の感想や紹介が日本語で...3人の子どもから発信される3つの文化。それが面白くていつも見入ってしまう。
 また、それが定期的に入れ替わり、イラストや和訳、注釈付きでどんどんわかりやすく興味を惹かれるものになっていくことに感心しながら、トイレに入る度に楽しみに読んでいる。
 
 それぞれが成人に近くなり、お互いの世界をシェアする時間も少なくなっている今、トイレでそれぞれが心酔しているものに触れることが出来ることはかなり貴重なことだし、その時に選んだ歌詞や本をトイレで味わいながら、それぞれの人たちが今何を想い何を大切にしているかを知ることが出来る。

発信は表現

 小さな日々の積み重ねが後からその人の根っこを育て、水や肥料を与え、大木になるまで影響する。それは真実で、子どもたちはそのために日々ドリルを解いたり授業を受けたりするのだと思う。ただそれは知識の問題で、これから更に必要とされていくのは「感じて表現する」スキルだと思う。
 社会にとって必要、なんて大きなことではなく、自分自身にとって。自分の想いを表現することで自分の心が整うものだから。
 学校で習った通り限られた範囲と価値観の中で型にハマった表現をするのではなくそれはあくまでも基礎で、そこから自由に自分自身を表現することを学ばなければ、得た基礎も知識も役に立たない。

 そして発信も表現も作文や音楽、芸術作品でのみ可能なわけではない。小さなメモ、一つの言葉、ちょっとした仕草、そんなところから。自分の好きなものに乗せて自分の気持ちや想いを乗せることだって可能だ。表現は自由さがないと本当の意味をなさない。

 私たち大人に出来ることは、それをただ受け止めること。または見て見ぬフリをすること。見るとどうしても「声が小さい」や「字が汚い」と言いたくなるなら、見えなかったことにするのが一番だ。常に頭から爪先まで全身、そして全行動を評価されている子どもたちは、最早「評価」に慣れてしまっている。それが続くと「思考停止」が訪れる。自分で感じることも、人の評価が基準で、誰かが喜ぶであろうことを「自分の表現」だと思い込んでしまう。

 時には大人も「指導しなくちゃ」という檻から抜け出て、自由な柔らかい心で子どもの発信する「想い」に目を向けてみると良い。何の役目も負わず自由な心のままに子どもたちの表現に触れると、曇っていた視界がパッと開ける。自分の素の心がくすぐられる。
 そうして私たちもまた、幼な子に戻って心震わせ学ぶことが出来るのだから。

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