見出し画像

先生は怒らない

 英語教室だけど、保護者面談をしている。いや英語教室だから、かな。
おうちの方から見た景色、おうちの方から見たお子さん、子どもの目からの景色、いろいろな視点がものすごく学び深い。
 その中で私のことを子どもたちが「先生は怒らない」と言っているとたくさんのおうちの方から聞いた。そして不思議なことに気付いた。その言葉は特に私が対応に迷った経験のあるクラスの子から出ていることが多いのだ。

 私との関係、教室での立ち位置を決める為なのかなんなのか、とにかく挑発的で人が絶対に嫌がるであろうことをする手段が出た時(注釈1)、実は平静を装っているが私の中にはかなりいろいろな想いが渦巻く。もちろん人間だから試される中で怒りも湧いてくる。ただ、それはすぐに自分を説得する。

「この子が今どうしてこういう方法を取っているか、わかるのか。わからないのに自分の感情を優先させるのはおかしくないか」

 瞬間的に自分自身を諌め、次のアクションを起こす。それは通常その子を責めることではなく、ただレッスンを進めること。そして私を試す行為をやめて素直に飛び込んで来てくれたら、ただ歓迎する。それだけ。私とあなたの間を「試す」必要はないんだよ、という信頼関係を意味している。それを続けると、私は試されなくなる。
 そんな中一つ気になるのは、他の真面目に授業を受ける生徒たち。彼らが「損した」気持ちになったら嫌だな、という考えが頭をよぎる。でもそもそも学びの場での「ずるい」とか「損」ってなんだろ。そう考えてまた自分の軸を問い直す。

 私は自分の感情ではなく、その時に必要なことを最重要視して動く。私との関係性や教室での立ち位置を今学ぼうとしている子に向き合うことは、他の子にとっても大きな学びとなる。そんな中、浅い考えで大人が「子どもが『損した』と思ったらどうするんだろう」なんて言っている間に、子どもたちの方は信頼関係を学んでいる。先生が彼/彼女に対して叱らないのは、先生がどんな子とも同じ様に信頼関係を持とうとしているから。そういう自分自身の安心感にも繋げているのだ。

 またある時生徒同士の会話にこういうものがあった。
「先生が怒らんのはね、私たちを信じとるけんよ」
私がこの教室でしたいことが、子どもたちに驚く程直球で届いていることにただただ驚き、嬉しかった。


===============
(注釈1)試す様な行動は「手段」であるから、特定の子を「そういうことをする子」と見たり表したりしない様に努めている。ただの「手段」。伝える時も「その方法は、正しいのか」という問い方をする。
「私が困ることをする子」という言葉はその子自身を表してしまうので、信頼関係を作る上で不要で邪魔であるという考えから。
 誰にだって、試してみたくなることもあるし、間違った手段を選ぶこともある。自分自身を否定されたら、自分自身を変えることは出来ないから悩み自分を憎む。再起不能。でも方法を変えることは、誰にでも出来る。だから、手段にフォーカスする。

この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

読んでくださって、ありがとうございます。 もし気に入ってくださったら、投げ銭していただけると励みになります💜