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自分で自分を助けること。救うこと。

 夫と娘と3人で食事をしていた。娘が何かをこぼして「あっ」と言ったので、アハハと笑った。娘が「このパジャマ、出したばっかりだったのに。洗った方が良いかな」と聞いたので、私は「自分が洗った方が良いと思ったら洗えばいいよ。」と言った。それを見ていた夫が「おおらかだ」とまた笑った。
 私も夫もずっとこんな風じゃない。元々の性格は、もっとこだわりもあって細かかったはず。でも家族5人で暮らすということの中で、一人一人のこだわりをぶつけ合うことや小さなことで争うことの無意味さを身を以て学んだのだ。言い換えると、そこで一呼吸置くことの良さに気付いたのだ。臭いパジャマを着て寝るのが嫌なのは娘。気にならなければそれでいい。それを私の感覚や夫の感覚でああだこうだ言うことはただのそれぞれの自己満足で、その場では全く必要のないこと。大事なことは娘自身がどう思うかだけ。考えをそうしていくと、次第におおらかになってきた。もちろん、それまでの間にはぶつかったり、間違ったりしたこともあったのだが。

 そんな話を他の子にしていたら、子どもたちがまだ小さかった時から私の考えは一貫していたと言う。何かをこぼして一番怒られるのは、そのままにした時。それに対処すべく何か動こうとしていたらOKだった、と。
 躾と言う程たいそうなことではないけれど、私は何かが起きた時に対処することが大切だと常々感じてきた。「失敗しないこと」が大事なのでは無い。失敗はあること前提で、何かしてしまった時に対処することが大事だと思ってきたのだ。失敗ない人生なんてあり得ないし面白くもないから。

 若い頃海外をバックパッカーで歩いた時、頼れるのは自分だけ。トラブルが無い日なんてないってくらいトラブルだらけ。でもその中で私が学んだのは「なんとかする」ことだった。その「なんとか」は自己責任で誰にも頼らず、とかではなくその逆で「人に助けを求める」ことだった。子どもの頃、私はなんでも自分でしなきゃ、と思う性格だったので人に頼ることが苦手だった。でも、いざ一人で生きていこうとすると限界があることにすぐに気付いたのだ。
 子どもたちに知って欲しいのは、助けてもらったり逃げたりしてもいいから、自分で自分を「助ける」こと、「救う」こと。そんな想いが日常生活の中に出ていたとは、我が子に言われるまで気づかなかったから嬉しかった。それに続いた「その代わり、何かやらかして黙ってじっとしてたら怖かったよね〜」という言葉に、私も何か躾らしいことをしようとしていたんだろうな、と当時の自分を可愛く思った。
 今子どもたちにそれがしっかり伝わっていることが、嬉しい。手探りで失敗ばっかりの私だったけれど、子どもたちが自分で生きる時のことをずっと頭に置いて過ごしてきた。
 こんな頼りないいい加減な私でも、子どもたちに栄養と健康的な生活を過ごして欲しいと思って伴走してきた。そして目に見える健康だけではなく「心の健康」の大切さを、遅ればせながら子どもたちが少し大きくなってから考え始めた。

 何が一番大事か、と聞かれたら「この一緒に過ごす時間の心地よさ」だと思う。子どもが小さい頃は、私はそのこだわりや自分の経験上の教訓を伝えようと頑張っていたのかも知れない。でももう私の背丈を超える程大きく、なんでもできる様になった子どもたちとは、5人の共同生活の様に暮らしていたい。それぞれの価値観、好きなこと、大切なこと、時間を守りつつ。楽しさや笑い、時に心配事を分かち合っていたいと思う。

 きっと、今まで永遠に続くのかも知れないと勘違いしてきたこの家族の時間の終わりが見えているから尚、そう思うのだろう。

 今日もただワハハと笑いあえる人がそこにいることに感謝しながら。

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