暇と退屈の倫理学

世の中の環境が整いすぎていて、自律が難しくなっている。常になにか刺激を与えるデバイスへの依存性が高くなり、内省の時間が減っている。

そういう危機感の中、飛行機に乗り込む。
通信機器はOFFにして、本を読む。
まだNoteにまとめていなかった、自分の人生観に影響を与えた本を再び。

読み進めるうちに、いろいろな方の表情が脳裏によぎる。家族も自分自身も例外ではない。退屈を回避する為のエンタメがあらゆるところで提供されている。それを主体的に選び取っているつもりでも、それは、かつて労働を搾取していた側が、暇を搾取するためにデザインされているものかもしれない。

直近の自身の時間の使い方を振り返る。

大脳のスペックを満たすための刺激をどこに求めていたのか。

広義のChange Agentの活動も没頭できるが、そればかりをやっているわけではない。料理、楽器演奏、スポーツ等々、強制的に没入する時間も作るがそれ以外の時間はスマホを触っている。

自分の向き合う相手はそこなのか???

さて、表題の書物では「暇と退屈の系譜学」という章がある。
そこでは人間がいつから退屈しているか?について考察がある。

そのキーイベントに”定住”を掲げていて、遊動生活と定住生活の捉え方について、いわばコペルニクス的転回を準備している。ここが面白い。

また、「暇と退屈の経済学」という章がある。
ここでは、ブルジョワジーにみならず、大衆にも”余暇”が与えられるようになった”経済的”な理由が解説されており、「暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人が大量発生した」歴史的なターニングポイントに言及している。

「暇をなぜ人は嫌うのか?」
という問いにも深い考察を見せている。

私はこのような心情に関わる部分の考察はかねてから音楽理論をふまえて深堀してきた。暇というのは、音楽ではどういう状況なのだろうか?

読み進めていくうちに”動物”と”人間”の違いについて触れ、「環世界」という概念が現れる。そして、「環世界移動能力」という人間特有の能力について解説がはじまる。
世界を行き来する観点は、数学にも表れる。
なにか共通点があるのだろうか。

もともと500ページ近く展開される「暇と退屈の倫理学」をたった1000文字程度のNoteでまとめるつもりは毛頭ないのだが、”数学と音楽の交差”で、ある程度言語化できた!と思えた世界観に、また新たな観点が加わった事実を残しておこうと思う。


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