ブログ_190608

人間関係に憶病なことと、学校で、社会で嫌われていたころ

 たぶんぼくのことを好きな人なんて学校には、つまり社会には一人もいなくて、何かをしてくれる人は親切心か良心でやってくれていると信じていた。人付き合いでは誰かにとって、普通、か嫌い、の、嫌いの方になることを極端に恐れて、内面的には、(能力的なではなく)人間性としての劣等感と、孤独感を抱いていた。

 今ではこんな中二病的な孤独感もだいぶ緩和されて、自分のことを好意的に見てくれる人がいると信じられるようになったけれど、自分の中の長年の常識は、なかなか感覚から抜けずに、今でも誰かに頼るのはとても苦手で、人との距離を測るのがへたくそで、自分を全的に相手に投げ出すことなんて、できない。だからぼくは本を読んで、知識で、能力で、人と話そうとする。

*     *     *

 このことを文章にしようと思ったのは、たぶん、最近仲よく話してくれる人が増えて、でも仲よくなればなるほど、相手との距離が意識されて、孤独感に目が行くようになったからだ。文章にすることで、もう少し仲よく話せるようになればいい、と思っている。

 この中二病的な孤独感は、中一のときの経験に端を発する。

 ぼくは中一のときに、クラスから浮いた。

 その理由には、もちろんいろんなことがあるのだろうけれど、一つ挙げるとすると、ぼくは、自分は物事の中心にいると思っていたし、物語の主人公は自分だと思っていたこと、だと思う。
 例えば、嫌がる相手に、変なあだ名をつける。サッカー部での友人との繋がりに重きを置くために、わざとクラスで悪辣に振る舞う(結果的にはサッカー部でも浮いたのだけれど)。

 まあ、このあたりの「浮いた理由」は、そんな感じで、その後のぼくに大きく影響を与えたのは、自分がクラスから浮いている、と、解らせられた出来事だった。

 ぼくは、自分がクラスから浮いていると「気づいた」わけではなくて、人から突き付けられた。二回。

 一回目は、サッカー部の練習試合で、他校に来ていたときだった。とても暑い日曜日、日差しが強い日。ウォームアップが終わり、まだしばらく自分たちの試合までは間があって、ゴール裏の、一段一段が高い階段状になった、自分たちの荷物を置いているところで休んでいたとき。理由は忘れたけれど、ぼくは、同じクラスだったサッカー部のやつと、喧嘩をした。
 はじめは軽いからかい合い、言い合いだったのが、ヒートアップしていった。興奮に任せて相手が言ったことは、今も忘れていない。

 おまえは、おれたちが教室でゲームをやっているとき、後ろに来てのぞき込んだりしてるけど、みんな嫌がってる。おまえはみんなに嫌われてる。

 ゴール裏すぐのところ、段々の下にいたぼくに、段々の上から浴びせられた言葉。それを見ている他の部員たちは、呆気にとられながら苦笑気味に、それ、言っちゃう? みたいな表情をしていた。ぼくは、何かを適当に言い返したけれど、胸の底が酷く重く、熱くなって、頭の後ろ側から血の気がさあっと引いていくような感じがして、その日はもうサッカーどころではなかった。

 ぼくにそう言ったやつがいたグループは、クラスの中でも同じサッカー部で、比較的仲がいい、と思っていたグループだった。その翌日から、ぼくは、クラスでほとんど口をきく人がいなくなった。

 もう一回は、学校帰りだった。小学校で塾が一緒だった、隣のクラスのやつと、たまたま帰りが同じ時間になった。(ぼくは中学校から私立に入って、電車通学をしており、小学校からの知り合いは、多くはなかった。)
 すごく、相手の気持ちを想像できない、空気を読めないやつだったと思う。内容も覚えていない世間話をしながら、学校から駅までの道のりの、ちょうど半分くらいまで来たとき。左手、道路の向こう側に緑が生い茂った公園が見えたときだったのを覚えている。やつが言ったのは、こんなことだった。

 ○○が、並木はクラスから浮いてるって言ってた。

 いや、それ、ぼくに直接言うか? ふつー。という、ふつーの突っ込みが心の表面を滑っていき、また、ぼくの胸は、重くて熱い不快感に満たされた。

 今でも鮮明に覚えている二つの出来事は、当然、ぼくのそれからの学校生活(つまり社会生活)に、人間関係観に、強い影響を与えた。(ぼくの行っていたのは、中高一貫男子校だった。)それからの中高生活約五年半のうちの一、二年で、中一のときのクラスメイトとも、喧嘩をしたやつとも、表面上は口をきくようになったし、なんなら遊ぶようにもなった。でも、ぼくは、どうしても、学校で話す人が、自分のことを友達として見てくれているとは思えなかったし、何かをほめられても信じられなかったし、その場に自分の居場所はなく「いさせてもらっている」感を持っていた。周囲と自分は違うものに感じていたし、劣っているという感覚はデフォルトでついていたし、相手が自分を好きであるということは現実的ではなくて全く信じられなかった。

 この感覚は、大学に行っても尾を引いたし、だいぶ緩和された今でも、人との距離を測るのがへたくそなことにつながっている。

*     *     *

 今、孤独感がだいぶなくなって、自分を好意的に見てくれる人がいると少しは信じられるようになって、仲よく話してくれる人が増えて、それでもまだ、嫌われるのが怖くて、あのときのようになるのをどこかで恐れていて、人間関係に憶病で、孤独感がある。

 でもこうして、自分の傷を掘り下げることで、それを文章にすることで、誰かと仲良く話すことにどういう形かで繋がればいい。

 仲よく話す人が増えて、それによって自分のこんな感覚に目が行くようになったことで、それでもう一つ考えたことがある。

 誰かと、仲よくなったとき。嫌われることを恐れる以外に、きっとぼくは、中高時代に得られなかった、相手との全的な関係、距離ゼロの密着感を、どこかで望んでいる。あの頃得られなかった関係が、今の自分なら、得られるのではないか、と思っている。
 そんな関係はあのころも今も、あるわけがないし、あるとしたらそれは依存以外の何物でもなくて、危険だということを、理性では解っている。
 そんな依存を求めていることがかっこわるくて、だから相手との距離を詰められなくて、だからこそ、結果的に、孤独感に、目が行く。

 ぼくは、人との距離を測るのが、極端に下手なのだ。


※この下に文章はありません。かなり感情を掘り下げてみたので、もしこの記事を読んで、何か思うところがあれば嬉しいと思って、記事に値段をつけてみました。でももちろん、いいね、だけで嬉しいです!

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