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ただのカボチャは、ただのカボチャじゃなかった

ただ(無料)のカボチャは、ただ(普通)のカボチャじゃなかった、という話です。
新天地で新生活を始めて、
私には 立場 というものが無くなって、
私は私のことを考えればよくなって、
私は私のすることを全部許して行こうとしている。
ようだ。
「ようだ」というのは、意識してそう決めたわけではないが、どうもそのようだ…と自覚し始めたからです。

そんな中、仕事が三連休の三日目の昨日、
どうも三連休の過ごし方として
何もできてない気がして
私何やってたんだ…?みたいな
なんだか自分を責めるような反省するような否定するようなモヤモヤしたのがあったんですね

その一つに、連休前に勤務先の先輩に頂いたカボチャを、この連休で調理しようと思っていたのに、三日目の昼にはまだ手を付けていなかった…という事があります。
で、自分を少し追い立てて
夕飯をいつもより早目に作り始めました。
カボチャを、いよいよ切ったのです。
カボチャは丸ごとなので大きい。
私の持っているまな板は、玩具みたいに小さい。
一瞬頭を巡らせたけど、やっぱりまな板になりそうな物は他にない。
小さなまな板に、丸ごとカボチャを置いた。
どこからどうやって切ろうか考え、少し脇の方へ包丁を入れた。
包丁が入って行かない。
これは…無理にやって怪我をするヤツだぞ…
無理は絶対しないぞ…と言い聞かせ、慎重に格闘した。
最初のカットがでけた!手、切ってない。よし。
今の要領で反対側をカット。でけた。
同じ要領で90度回してカット。反対側をカット。
実は、早い段階で気付いた。
あれっ?これ、楽しいぞ♪

丸ごとカボチャは、大きなまな板で何度か切ったことはある、東京で。
でも、楽しいと思ったことはなかった。
なんで楽しいんだ?

余ってるからと、くれたカボチャ。
それを、自分のペースで過ごした自分のタイミングで切った。不安定な状況の中、あれこれ考えて自分なりにベストな形を頭で探って実験的に実行した。これは夕食作り。暮らしのひとコマである。…な感じに見えた。

「暮らし」
私は、「暮らし」がしたいと願って来た。
日が昇り日が沈むように、
一日の一つ一つの出来ごとを過ごして行く。
理想のように、夜明けと共に起きて夜更けと共に寝る…なんてことはなかなかできてはいないけど、
このカボチャ切りが、そんな「暮らしのひとコマ」に見えたのだ。

ただ、「カボチャを切る」のが楽しいなんて。

さっきまでのモヤモヤの霧が晴れて行った。
モヤモヤしてたことは、すべて許せた。
モヤモヤしてたのは、
如何に一日を有意義に有効に過ごすか…というような、これまでの思考パターンに囚われていたからだと分かった。

別に、一日にたくさんのことをしなくてもいい。
有意義になんて過ごさなくてもいい。
自分に正直であればいい。
自分に委ねていればいい。
効率は悪くていい。
良くてもいい。

ただのカボチャは、こんな体験をさせてくれた
特別なカボチャだった。

・・・

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