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言葉と自分と誰かと桜と

すごく何度も考えている事があります。
文体をどうするのか。
書くのが好きだった頃の自分は常体(である。だ。)だったし、書くのが億劫になってからは敬体(です。ます。)だったから、あえて常体にして当時の感覚を取り戻そうとはしたものの、今の自分が書くと偉そうに思えるのだ。
だからといって敬体にすると、お知らせでも書いてるような、なんだか妙に謙った文章になってしまう気がしてなんとも落ち着かないのです。
20代の頃は偉そうに書く事がむしろ滑稽に見えただろうから、それを意識して常体で文章を書く事で好きなように文章が書けた。
しかし、もう40も過ぎるとどうやってもそれでは滑稽に見てもらう事ができないわけで、敢えて偉そうに書いている裏側にある自分なりの謙遜が鼻に付くのではと思います。
とはいえ、敬体にする事で距離を感じさせてしまったり、"笑顔の圧"というか、大人の重たさに見えてしまうのではないかという危惧もあるのだ。
そうやって色んな事を迷いながら書いていると、常体であったり敬体であったりが行きつ戻りつを繰り返して、結果的に落ち着かない文章になったりするのですだ。
やはりこうやって自分を自分で茶化してみたり、滑稽に見せようとしたり、時に真面目に向き合ってみたりと落ち着かないのは、自意識過剰なあざとさのようなものと重たいくらいの真剣な気持ちとの中で、ウネウネと迷いながら生きてるせいなんだろうなという気がして、な〜んで俺はこんな大人になっちゃったんだろ〜な〜と、なんだかやるせない気持ちになったりしちゃったりぴゃっぴゃり。
こういう時はいっそのこと振り切っちゃおうっていうのが人情ってのべんべ、思いっきりわけの分かんない方向に進んでみたりしたりみたみりちゃったむりしちゃまったるんだけども、結局そんなものは現実逃避の問題回避でしかないわけめ、みっともないからやまったもうがストイ。

ん〜…やっぱ何か怖い。色々やったけど、やっぱどうにもしっくりこないし、怖くなってくるじゃんね。どうしたものかなあ。こういう事に結論が出ないまま先へ進むのが嫌いなんだよなぁ、昔から。だからこそこういう事で迷うのかもしれないけど。誰かみたいに書きたいわけでも、誰かと同じように書きたいわけでもなくて、自分の言葉を書きたいと思いつつ、過去の自分とこれからの自分とで迷いつつ。打開策としての体言止めをしてしまう俺。解決せず。

…なんだか気軽に文体について書いてみただけのはずが、自分にとって、そして自分が人にとって、一体どうであるのが一番心地良いのかについて気にしてるんだろうなという気がします。どんな大人になろうかな。どんな大人でいようかな。どんな大人でいたかったかな。大人でいるべきなのかなとかなんて。

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