アーセナル敗戦時のメンタルのリカバリーとクラブ愛について。(歌舞伎町ホストクラブの話ではありません、、、。)
「こんばんは、徳川家康です。」
「今回はアーセナルサポーター、特に熱狂的なグーナーと呼ばれる方々に私の言葉を授けたいと思います。」
「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出 すすべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つことを知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」
アーセナルは4月3日、プレミアリーグ第30節リバプールとの試合で0−3と敗北した。
プレミアリーグにおけるチャンピオンズリーグ出場圏確保の可能性はほぼなくなった。
この試合、アーセナルはほぼ何もできなかったと言っていい。
守備ブロックをしいて、ただただリバプールの攻撃を防ぐだけで精一杯であった。
観ていて胸が苦しくなり、怒りに震え何度もTV電源を切りたくなった。
そして私の心のオアシスであり、唯一チームに闘魂注入することができる「テスコボーイ」ことキーラン・ティアニーがガチムチのミルナーおじさんに膝をやられた。
ミルナーの足がかかりティアニーの膝が変な方向にむいていた、ティアニーの怪我の具合は神に祈るばかりだが、しばらく離脱することは間違いないだろう。
現状アーセナルは本職の左サイドバックはティアニー1人であり、今後は右が主戦場のセドリックに頑張ってもらうしかない。
この怪我と今後のヨーロッパリーグの展望も含めて、私のメンタルはズタボロな状態となった。
*ちなみに私の愛する「テスコボーイ」ことティアニーは試合も練習もテスコというスーパーのビニール袋をカバン替わりに使っている素朴な青年である。
Jリーガーで西友の袋など使ってる選手がいたら教えて欲しい。
というわけで、、、昨日の日曜日は午前中はフラストレーションと喪失感におおわれ抜け殻のように過ごした。
午後は頭痛におそわれて昼寝し、アーセナルに人生を振りまわされている。
まぁここ数年間はこのような地獄の日々が週末や月曜日にたびたび襲ってくる。
そしてその日の夜、私の娯楽の一つであるNHK大河ドラマ「青天を衝け」で少し気分が和らいだ。
渋沢栄一と千代の祝言、井伊直弼の斬新な解釈と存分に楽しませてくれた。
そして、冒頭の徳川家康の遺訓が思い出された。
「人生とは、重い荷物を背負って、坂道のような上り坂をひたすら歩き続けるようなものであり、焦らず、ゆっくり進みなさい。
不自由なときこそ、いつもの状態であり、辛抱することこそ、無事に平穏な日々を送る秘訣なのだ。怒りは、平穏を台無しにするから気をつけなさい。
勝つことだけを考えるのではなく、負けることも必要なのだ。負けることがなければ、人の情けやありがたみも分からないためである。
何事も人のせいにするのではなく、自分に悪いところはなかったかを考えてみなさい。
そして、何事も、やり過ぎてしまえば取り返しがつかないことになるが、まだ多少やれるくらいの余裕を持っていれば、いつかきっとうまくいくことがあるのだ。」
この言葉は小学校の修学旅行で日光東照宮に行った時のお土産の置物に書かれていた言葉でよく覚えている。
そのお土産はいつの間にかなくなっていた。
おそらく、人生は苦行だと感じ始めた思春期ごろに捨ててしまったに違いない。
あらためて意味を噛み締めると、社会人として忍耐力やアンガーマネージメントなどと会社という組織でやっていくうえでの処世訓としては良い言葉である。
しかし、やはり昭和の終身雇用時代に適した処世訓であり、重い荷物を背負いリーマン道を歩み続ける忍耐力は私にはなかった。
偏愛するもの私には間違いなくアーセナルだが、そういうものにこの家康公の言葉を置き換えてみると、しっくりくる。
今は辛い時であるが、アーセナルも若手を育てプレミアリーグの順位をゆっくり登り、成長していけばいい。
負傷者が続出し、補強もままならなく、勝てない時期が今までいくらでもあったじゃないか。
セスク、ナスリが去った2011シーズンのマンチェスターU戦2−8という大敗を思い出してみろよ。
あれほどの屈辱的なものに比べればこのような敗戦は受け入れられるのではないか?
この敗戦を糧にして戦術も見直せば、チームとしての伸びしろはまだまだあるぞ。
今季ヨーロッパリーグもサカ、スミス・ロウ、マルティネッリ、ウーデゴールという若手のブーストがかかれば優勝を狙えるチャンスは十分にある。
とにかく焦らず、アルテタ中心に自分たちのサッカーだけを考えて一戦一戦大事に戦っていこう。
このように家康公のお言葉を勝手に解釈しなおして、私の心の平安は取り戻せたのである。
それにしても、これほどまでになぜアーセナルに依存し振りまわされる人生なのか疑問に思われる方々もいるかもしれない。
アーセナル界の有名ブロガーである ” さる ☆ グーナー ” さんは
「アーセナルというカルト教団に洗脳された。」
と名言されています。
アーセナルには
「Once a Gunner, Always a Gunner」
という言葉がある。
「一度ガナーズのシャツに袖を通した者は一生ガナーズの選手」
という意味である。
「アーセナル教」は一度でも選手とファンが共闘すれば、それがシンクロしアーセナルに人生を捧げてしまう何かを持っている。
私は川崎フロンターレというJリーグクラブのサポーターであり、中村憲剛を追いかけて等々力に頻繁に足を運んでいたが、アーセナルほどの信者にはなっていない。
それはアーセナルが134年の歴史に対して、フロンターレたった22年というクラブの歴史の差が生むものだろう。
確かにここ最近のフロンターレはJ最強クラブであるし、私に歓喜と多幸感を与えてくれる。
しかし、アーセナルのような03−04シーズン無敗優勝したときの最強時代はそう長くは続かない。
川崎フロンターレで言えば、三笘薫、田中碧、旗手怜央といった主力選手の海外移籍や家長昭博の引退後はどうだろうか。
幸せな日々は永遠ではないのだ。
川崎フロンターレのDNAを根づかせるためには、クラブの象徴でもある中村憲剛が監督として戻ってくるまでに、いかにフロンターレというクラブの美学をサポーターと共有していくかである。
アーセナルは22年間、アーセン・ベンゲル監督がクラブのDNAを培ってきた。
“ Football is an art , like dancing is an art - but only when it's well done does it become an art. "
「フットボールはアートである。ダンスがアートであるように。ただ、最も素晴らしかった時にだけアートになる。」
アーセン・ベンゲル
このベンゲルの言葉によって、アーセナルのプレースタイルを熟知しているグーナーならば2、3の素晴らしいゴールシーンが頭によぎるはずである。
古くはニューキャッスル戦のベルカンプの一見意味が分からない変態トラップからのゴールなどは完全にアートの部類に入るであろう。
近年では芸術的な連携による早熟の天才ウィルシャーのゴールなど感慨深い。
流れるような連携したパス、そして緩急自在な選手たちの動き、アーセナルというオーケストラが奏でるリズムが各楽器から奏でられ、シンクロして美しい旋律のアートになるのである。
キックアンドラッシュというオールドイングランドスタイルのサッカーだったプレミアリーグ。
ベンゲルはただ試合に勝つことを目的にしていない。
”美しいサッカー”で勝つということでアートになることを証明したベンゲル。
私はアーセナルに魅了され、さるさんの言うように「アーセナル教」に入信し洗脳されてしまった人間である。
正直しんどい時も多々あるが、一生を捧げるほど好きなモノに出会える人など世の中にそんなにはいない。
アーセナルというクラブを愛し誇りを持つことが自分のアイデンティティーの一つであり、そういうクラブに出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいである。
Jリーグももっとグローバル化して、フロンターレらしい美学と哲学を持ったチームを継承していって世界に認知されるようなクラブになれたら最高だ。
これからもアーセナル教の布教活動をnote上でやっていきたいと思う。
ちなみにドMの方は私のように人生を振りまわされずに、健全な精神と健康体で生活できると思うので是非とも入信を勧めたい。