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テニスで「淡交(たんこう)」というものを味わえた話

新年があけてはじめてのnoteの投稿である。

世の中はオミクロン株による第6波に入ってしまった。
3回目ワクチンのブースター接種も全く進んでいない状況で、またもや日本は欧米諸国より後手を踏んでいる。

日本人の特性として行動の自粛をする傾向がある。
特に多くの人口を占めている高齢者は孤立してしまい、不安感を抱えている人が多くいると思う。

特に高齢男性は会社という共同体から外れると、自己のアイデンティティを再度リセットして新しいコミュニティを構築していくことが難しいという話をよく耳にする。

そんな私も立派な四十をこえた中年だが、週一で通っているテニススクールで友人ができた。
この歳になって新しい友人ができることほど幸せなことはないとつくづく思う。

その友人は私より20歳ほど年上である。
(親しみもこめてここではオジサンと呼ばせてもらう。)
ちなみにテニスの腕前もそのオジサンが格段に上である。

私たちは毎週のように顔をあわせて、ひたすらテニスの技術やラケットなどテニスギアについて話し、仲良くなっていった。

オジサンの容貌はロン毛を後ろで髪を結び、ちょっと個性的である。
そして、話していて何より愛嬌があり、滲み出る優しさを感じられる人柄に私は魅了された。

私たちはお互いの仕事や家族のことなど個人的な情報などはいっさい話したりしない。

そのオジサンの住まいが三浦半島の三崎港あたりにあり、釣りを頻繁にしていることぐらいしか知らない。

オジサンも私がテニススクールの近くに住んでいることぐらいしか知らないだろう。

私たちは、ただただテニスというスポーツでのみ繋がっている間柄である。

去年の秋に私たちはスクール主催のダブルス大会に出場した。
接戦でもつれた試合もあったが、私が大事な場面でダブルフォールトをしたりと、単純なミスで足を引っ張ってしまい、三戦全敗という結果で終わった。

次の週の練習でオジサンと話していると、

「あの日の試合の後さぁ、なんか食欲もなくてさぁ。その晩もなぜだか寝れなかったんだよなぁー。」

とオジサンは何気なしにつぶやいたのだ。

その瞬間、私はひどく反省した。
オジサンにとってのテニスは単なる趣味ではなく、本気なのだ。
普段は楽しくテニスをしているが、心の奥底では真摯にテニスという競技と向かいあっている姿勢に今更ながら私は気がついた。

私は試合に負けてもいつも通り生活し、オジサンのように精神的ダメージを引きずることはなかった。

まさにあの試合におけるオジサンのラケットは真剣であり、わたしのラケットは木刀であったことに気がついた。

その日以来、私は週一回の練習の一球一球に集中してのぞむようになった。
なんとしてもテニスの技術を向上させて、次の大会ではオジサンと勝利を味わいたいからである。

2年間付き合ってきて、オジサンは自分のテニスへの情熱を私に押し付けるようなことは絶対にしなかった。
しかし、オジサンとの交友のなかで自然と私のテニスへの気持ちが高められたのだ。


茶の世界で「淡交」(たんこう)という言葉があることを本で読んだことがある。

君子の交わりは淡きこと水の如く、
小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し。

まさに荘子の言葉からとった言葉であろう。

もちろんのことお茶はさっぱりとしている。
お茶の世界では甘い酒のようにベタベタせずに、淡々と交友するのが良しとされる。

それは、自分のこだわりを無くし、自分の考えを相手に押し付けない。
ただ自らが実行するだけである。

まさにオジサンは私に「淡交」という世界観を教えてくれた存在であり、素晴らしい友人関係を築いてくれたのだ。

コロナウィルスという目に見えぬ恐怖と不安感が覆う世の中で、テニスという身体性を通して人と触れ合い、心の平穏をなんとか保てることができている。

このような友人を得たことが、ここ最近の私の一番の僥倖あることは確かである。

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