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連載小説 「ターミナル」 第1話

第1話 「ゆめさき駅」

 その日、末友京介すえともきょうすけが学校に行くと、校門前は報道陣で溢れかえっていた。そのうちの一人が彼の存在に気づいて、足早に駆け寄ってくる。

「君この学校の生徒だよね? ちょっとお話聞いてもいいかな? 青山さんのことでーー」

「すいません。俺、進学科なので彼女と面識ないんですよ」

 京介は記者の言葉を遮るようにして答えた。いくら年下だからとはいえ、初対面の相手にタメ口をきくこの記者の態度は気に入らない。

「でも、学校で見かけることぐらいあったでしょ?」

「いや、そういうのもないので」

「あ、そうなの? じゃあいいや。ごめんね」

 その記者は彼に対する興味を早々に無くして、別のターゲットに乗り換えた。京介は報道陣の人だかりを抜けると、いつものように教室へ向かった。

「おっす、京介。お前も学校来たんだ?」

 教室に入ってすぐに友人の高城蓮たかしろれんが話しかけてくる。

「ああ、別に俺には関係のない話だからな」

「冷たいなぁ。三人も死んでるんだぜ?」

「でも、そいつらいじめっ子でしょ。自業自得なんじゃないの?」

 それを聞いて、蓮が楽しそうに笑う。

「それもそうだな。まったく、このご時世にいじめとか普通科の女はほんとに頭が悪いよなぁ」

 蓮は教室の窓から、依然として消える気配のない報道陣を眺める。

「あいつらも馬鹿だよな。普通科は休校になってんだから、取材なんかしても意味ねえってのに。俺ら進学科が向こうのこと知ってるわけねえだろ」

「そうだね。やっぱり普通科と進学科は別物だよ。たぶん先生もそう思ってるから、進学科は休校にしなかったんだろうね」

「俺、高校聞かれたとき進学科って必ず言うようにしてるわ」

「はは、桐高あるあるだな」

 そうしていると一限目のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。

「えー、お前らもすでに知っていると思うが、普通科の方で色々あった。しばらくメディアに取材されるようなことがあるかもしれんが、みんなには関係のない話だから取材は極力断るように。君たちは学業だけに集中しなさい」

 担任はいつもの調子でそう前置きしてから、早速授業に取り掛かった。あまりにも普段通りすぎて、流石の京介も唖然とした。

(一応全国区のニュースで大きく取り上げられるレベルの事件だったんだけどな)

 京介が教室を見渡すと、クラスメイトの数はいつもより少ないように見えた。いくら関係がないからといっても、身近なところであれだけ凄惨な事件が起これば、ショックを受ける生徒がいるのも当然だ。

 京介がその事件を知ったのは昨日の夕方ごろだった。その日は日曜日で、京介は自室で読書をしていた。少しずつ読み進めていた小説も終盤に迫った頃、突然蓮から電話がかかってきた。

『今桐高やばいことになってるぞ! 早くテレビつけてみろって!』

 言われるがままテレビをつけると、ちょうど夕方のニュースがその事件を扱っていた。

 それは桐谷高校普通科に通う女子生徒が同級生三人を殺害したという悲惨な内容だった。容疑者の女子生徒の名前は、青山遥香あおやまはるか。被害者三人から陰湿ないじめを受けていた彼女は、それを理由に三人を刃物で複数回刺して殺害。その後、自らも命を絶ったという。普段あまり他人に関心を持たない京介でも、その事件は衝撃的だった。

 その日は平時と同じく六限まで授業があり、帰りの集会でもう一度取材陣との付き合い方を説かれた後、京介たちは解放された。

「マジで普通に六限まであったんだけど!? 仮にも同じ学校の生徒が死んでるのに、それは流石にどうなのよ?」

 そうぼやいて、蓮は腕を伸ばして大きなあくびをした。

「今日ちょっと小耳に挟んだんだけど、いま普通科と進学科を別の高校として分離する方向で話が進んでいるらしいよ」

 京介は教科書を鞄に入れながら、今朝職員室で偶然耳にした話をそのまま伝えた。

「おい、それほんとかよ!? ……って逆になんで今までそうしなかったんだって話か」

 蓮は最初大袈裟に反応したが、すぐに冷静になる。

「やっぱり、進学科の成績不良者が普通科に落とされる制度が意外と効果があったからじゃない? あれのおかげで二つの差がますます開いたみたいだけど」

「なるほど。進学科はテスト前になるとみんな死ぬ気で勉強するもんな。 あんなところに落ちたら俺、恥ずかしくてもう外歩けねえもん!」

 京介の説明に納得したようで、蓮はケラケラ笑っている。

 それから二人は歩いて学校を後にした。報道陣の人数は朝と比べて随分少なくなり、通り抜けるのも容易だった。きっとここにいても大して有用な情報を得られないことを悟ったのだろう。ひとまず平穏な学校生活が戻ってきそうだ。――普通科が再開したらまた騒がしくなりそうだが。

「てか殺した方の女の子も普通に馬鹿だよなあ?」

 帰り道、突然蓮がそんなことを言い出す。それは失礼じゃないか、と思いながら京介は聞き返す。

「何が?」

「いや、だって、京介も写真見ただろ? めちゃくちゃ可愛かったじゃん」

「……まあ、それは確かに」

 容疑者の青山遥香は巷でも【美しき殺人者】と騒がれているように、容姿の整った美少女だった。京介も以前見かけたことがあったが、彼でさえ一瞬目を奪われるほどだった。

「あれだけ可愛けりゃもっと上手くやれたろ、って思わないか? 俺に助けを求めてくれれば絶対いじめっ子から守ってあげたしな。そしたら彼女も俺にメロメロだったのに。あー、もったいな」

「よく言うよ。遊び相手ならもう腐るほどいるくせに」

 蓮は顔がよく、明るい性格だからとてもモテる。噂ではそういう関係の女友達が十人以上いるということだ。本人の口から聞いたことはないが、おそらく事実だろう。

「いやー、最近マンネリ化してきてね。そろそろ新しい子をストックしたいわけよ」

 京介はため息をつく。

「女遊びもほどほどにしろよ。お前の勉強の面倒見るのは俺なんだから」

 試験前になると京介はいつも蓮に勉強を教えていたが、最近彼の成績が落ちていることもあって、それが彼の負担になりつつある。

「わかってるって。俺がこうして普通科を嘲笑ってられるのも京介のおかげだよ。マジで感謝、俺のメシア」

「ほんと調子のいいやつだな……いつか痛い目見るぞ?」

「はいはい、でももし俺が普通科に落ちたら京介も道連れだからね」

「ざけんな、一人で死ね」

「えー、京介くん冷たい」

 軽口を交わしているうちにいつもの分かれ道に着いて、二人は別れた。京介はそのままバイト先のコンビニへ向かい、数時間レジ打ちをした後、帰路についた。家に着いた頃にはもう十時を回っていた。
 
「あら、おかえり。今日は遅かったわね。バイトの日?」

 テレビでお気に入りのお笑い番組を見ていた母が振り返る。

「うん、ていうか月曜はバイトって前にも言ったよね?」

「そうだったかしら? ごめんね、最近物忘れがひどくって。私も年ねえ」

「別に怒ってはないから。晩飯は冷蔵庫の中?」

「そうよ。さわらの味噌煮とほうれん草の和え物ね」

 京介はラップに包まれたそれらをレンジで温めた後、食卓に並べた。どちらも大好物というわけではないが、母は料理が上手いのでいつも美味しく頂いている。

 さわらを口に運んでいると、テレビを見ていた母が不意に振り返った。

「そういえば、今日学校は大丈夫だった?」

 大丈夫、というのは例の事件に関してだろう。

「全然大丈夫、いつも通りだったよ。前にも言ったけど、普通科と進学科って全くの別物だから」

「そう、じゃあ京ちゃんには何の影響もないのね」

 母は安心したようにテレビへ視線を戻した。

「……まあ、一応同じ学校だし風評被害はあるかもしれない。もしかしたら推薦の枠も減っちゃうかも」

「ええっ!? それは大丈夫なの!?」

 突然大きな声をあげて、母が再度振り返る。

「平気だって。仮に推薦もらえなかったとしても、地元の国公立ぐらいなら一般でも余裕で行けるから」

「うーん、まあ京ちゃんが言うならそうなんでしょうね」

 母は京介に絶対の信頼を置いている。といっても母は京介に過度の期待を寄せるわけでもなく、基本的に放任主義だ。その母の存在もあってか、京介は母子家庭の貧しい暮らしでありながら、今まで特に窮屈に感じることはなかった。

 京介は食べ終わった食器を片付けた後、自室へ向かう。その時、母が思い出したように「あ」と声を出す。

「言い忘れてたけど、今月も奨学金振り込まれてたからね。ちゃんとお礼の手紙出しなさいよ」

「わかってるよ、母さん」

 一言返事をしてパタンとドアを閉める。ドア横のスイッチを押すと数秒の時差があって部屋の電気がつく。

 4畳の狭い部屋。布団と学習机、本棚以外はこれといった物が無い。他の人が見たら不憫に思うのかもしれないが、17年間をこの部屋で過ごした京介からすれば、今更何も思うことはない。

 京介は小学一年生から使い続けている学習机の前に座ると、忘れないうちに奨学金のお礼の手紙を書き始めた。この給付型奨学金には随分家計を支えられている。貧困をそれほど感じずに、一般家庭の友達とそれなりの頻度で遊ぶことができているのも、それのおかげだった。

 手紙を書き終えると、鞄から教科書とノートを取り出して今日の復習に取り掛かる。それが終わると明日の予習に取り組み、残りの時間は先生に薦められた市販の参考書に費やす。これを毎日繰り返すだけで塾なしでも学年順位一桁は堅い。

 京介にとってそれは単純で退屈な作業――だが、確実に必要な過程だった。京介は要領がいいこと以外取り柄のない人間であることを自覚している。そして、人より不利な境遇で生まれた自身の価値を高めることにいつも必死だった。

 だから、恵まれた環境にありながらそれを活用せずに腐らせる人間――または、自分で努力もせずに自身の不利益を環境のせいにする人間を心底軽蔑していた。

 一通りの勉強を終えてシャワーを浴びた後、京介は布団に入った。スマホを開いて、友達からから来たLINEの返信をする。今日の話題はもっぱらあの事件についてだった。別に楽しい会話ではなくとも、快適な学校生活を保障する良好な人間関係の構築のために必要な工程だ。

 いつもならそこで疲れてすぐに眠ってしまうのだが、その日は例の事件のことが頭に浮かんだ。具体的には容疑者の青山遥香について。

 彼女は恵まれた容姿がありながら、学校でいじめの対象になり、その結果最悪の結末を辿ることとなった。京介自身の心身に悪影響を及ぼす可能性があるためいじめの全容を知ることは避けていたが、遺体が相当無残な状態だったというのでそのいじめもかなりのものだったのだろう。彼女の受けた苦痛は計り知れないし、同情もする。

(だけど――)

 帰り道での蓮の言葉を思い出す。

『あれだけ可愛けりゃもっと上手くやれたろ?』

 全くの同感だった。高校生にとって容姿は極めて重要な要素である。現に顔のいい蓮は校内の一軍筆頭であり、クラスでは覇権を握っている。うまくやれば青山にも同様のことができたはずだ。

 いじめられた側が悪いなんて言うつもりはないが、自分の可能性を適切に活用できなかったいじめられた側にもきっと要因がある。それが彼の意見だった。

 そこまで考えて、自分があの事件に存外影響を受けていたことに京介は気づいた。あの事件には自分が無関心ではいられない何かがあったらしい。

 これ以上の思考は無駄だと思った時、彼の意識は自然と微睡の中に沈んでいった。

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 例の事件から一ヶ月が経とうとしていた頃、事件がニュースで取り上げられることもほとんどなくなり、学校では話題に上がることすら無くなった。

 普通科とはそもそも校舎が違うので向こうの様子はわからなかったが、少なくとも進学科の生徒たちは何事もなかったかのように日常の延長線を過ごしていた。京介自身ふと頭をよぎることはあっても、それ以上のことは何もなかった。

 冬休みまであと数日という頃。その日の昼休みは、クラスでも一際存在感のある人間が集まり談笑していた。

 その中には当然、京介も含まれている。蓮の親友というだけでなく、クラスでは面倒見の良いキャラとしてその地位を確かなものにしていた。

「友達から聞いた話なんだけど、みんな『ゆめさき駅』って知ってる?」 

 学年一可愛いと評判で、クラスでもよく目立つ人物の相澤佳奈あいざわかなが言った。こういう噂話をいち早く掴んでくるのは、いつも彼女だ。

「何だそりゃ。俺は聞いたことないぞ」

 それにすかさず蓮が反応する。蓮は以前、佳奈を狙っていると言っていた。

「ひらがなで『ゆめさき』って書くんだけど、なんか最近流行ってる都市伝説らしくて」

 その都市伝説が例の事件の次に来る話題となるのは、随分役不足ではないだろうか。それに、似たような名前の都市伝説を前にも聞いたことがある。

「それって『きさらぎ駅』じゃないの? ちょっと前に話題になったよね」

「違う違う! 全然別物だよ!」

 佳奈は大袈裟に首を振って否定した。

「もしかして夢にその駅が出てくるの? 『ゆめ』ってつくぐらいだし」 

 佳奈と仲が良く、同じくクラスの中心にいる山本梓やまもとあずさが言った。

「そう! まさにその通りなの!」

 佳奈は人差し指を立てて、ニヤリと笑った。それを見て、京介が苦笑しながらつっこむ。

「夢に出てくるから『ゆめさき』って安直だな。ひょっとしてそれ相澤が自分で考えたんじゃない?」

「あ、絶対そうだわ。それなら名前から漂う胡散臭さも説明がつく」

 蓮も便乗して、佳奈をいじる。

「違うわ!! てか京介、それ遠回しに私のこと単純なやつって言ってるよねー?」

「俺はそんなつもりなかったけど、相澤にはその自覚があったんだ?」

「京介ムカつく―!! あずさ〜!」

 佳奈は悔しそうに顔を歪め、梓の背中に泣きついた。

「おー、よしよし」

 梓が佳奈の頭を優しく撫でる。女子にしては長身の梓と小柄の佳奈は、こうしてみると親子のようである。抜群の愛嬌でマスコット的存在の佳奈と、クールで頼り甲斐のある姉御肌の梓の組み合わせは安定感があり、見ていて飽きない。

「それはそうと、結局『ゆめさき駅』ってのはどういう都市伝説なんだ?」

「馬鹿にしてきたからもう言わない……」

 佳奈はむーと頬を膨らませて拗ねる。

「いや、俺は普通にその話興味あるからね? 馬鹿にしてたのだって京介だけだから」

 突然裏切りだす蓮。こういうとき迷わず女子の味方につける蓮は賢いと、京介は思った。

「はあ……仕方ないなあ」

 そう言いながらもまんざらでもなさそうな佳奈が話し始める。

「私の友達が実際に体験したらしいんだけどね、気がつくと駅のホームにいたらしいの。そして瞬時にそこが夢の中だということもわかったんだって」

「明晰夢ってやつか」

「うん。でも明晰夢ならふつう、それが夢だってわかった時点で夢の内容を自由自在にコントロールすることができるでしょ? でもその子が言うにはそういうことはできないんだって」

「へえ、でその駅で何が起こるんだ?」

「あれ、京介も案外ノリ気じゃん。まあいいけど。その子はその後ねーー」

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 その日の夜、京介は布団の中で、昼休みに佳奈が話していたことを思い出した。

 彼女のいう都市伝説は荒唐無稽で、到底信じられるようなものではなかった。でも、京介は一抹の違和感を抱いていた。

 それは、今回の「ゆめさき駅」の都市伝説が、今まで佳奈が持ってきたその類の話と比べて、怖くもなければ強烈なオチが用意されていたわけでもなかったことだ。ああいうのは人々の恐怖心や好奇心を刺激して惹きつけるものでなければならないはずだ。

(まあ今回はそういう話だったというだけか……)

 そう思うと途端にどうでもよくなった。そして、いつの間にか京介は眠りについていた。

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 気がついたとき、京介は”駅”にいた。

「……マジかよ」

 見上げると『ゆめさき』の文字が見える。田舎の小さな駅らしく、他に人は見当たらない。空は暗く、電灯の仄暗い光だけが辺りをぼんやりと照らしている。

 意識ははっきりしていて、これが夢であるということも瞬時に理解できた。

「あの都市伝説は本当だったのか……? いや、あんな話を聞いた後だから、俺が勝手にこんな夢を見たのか……」

 これがただの明晰夢ではないというのなら、この夢を操作することはできないはずである。京介は試しに空間を駅から別の場所に移動させようと念じてみる。しかし、依然として景色は変わらなかった。

「本当に佳奈が言っていた通りじゃないか」

 そこで京介はハッとする。

「たしか聞いた話ではこの後ーー」

「何かお困りですか?」

 突然後ろからかけられた声に、京介の心臓は止まりそうになった。

 振り返ると、そこには駅員が立っていた。細身の長身で、縁の細いメガネをかけた、30代半ばぐらいのこざっぱりとした男性。全て佳奈から聞いた特徴と合致していた。

「あの……ここはどこですか?」

 京介がおそるおそる尋ねる。

「ここは『ゆめさき駅』です。幸運にもお客様はここに呼ばれました」

「呼ばれたって、誰に?」

「さあ、それは私にもわかりません。しかしここに来れる人はそう多くはないので、幸運なのは間違いないでしょう」

 駅員は京介の質問に淡々と答える。不気味だが、敵意は感じられない。

 そして、ここが本当に「ゆめさき駅」だと言うなら、京介にはまず確認しなければいけないことがあった。

「ここで本当にできるんですか? ……過去を変えることが」

 駅員は一瞬目を丸くさせたが、すぐに元の表情に戻って答える。

「ああ、お客様はご存知だったのですね。おっしゃる通り、できますよ。ここはそういう場所ですから」

 佳奈の言葉を思い出す。

『ゆめさき駅ではね、電車に乗ることで過去をやり直すことができるらしいの! すごくない⁉︎』

 彼女が言っていたことは正しかった。非現実的な話だが、ここまでくれば信じざるを得ない。

「来たようですね」

 駅員が指差す方を見ると、線路の向こうから電車がやってきていた。

「ちょっと待ってください。まだ聞きたいことが……」

「そうおっしゃいましても、電車を待たせることはできませんので」

「でも、俺には変えたい過去なんて……」

「そうですか。それは大変珍しいお客様ですね。今までここに来たお客様は皆何かしら変えたい過去をお持ちでしたので」

 電車が駅のホームに入り、速度を落としていく。京介の髪が、電車の風を受けてふわりと靡いた。

「乗った後でも途中下車は可能です。とりあえず乗車してみてはいかがですか?」

 電車が停車し、ゆっくりと扉が開く。

(相澤から聞いた『ゆめさき駅』の話で実際にそれを体験した人の中に、電車に乗らないという選択を選んだ人はいなかった。電車に乗った人間が元の世界に戻れた事例がある以上、わざわざここで未知の選択をとるのは賢いとは言えないか……)

「わかりました。乗ります」

「そうですか。良い選択だと思いますよ」

 京介は一番近いドアから電車に乗り込む。振り返ると駅員が手を振っている。

 扉が閉まる直前、駅員が言った。

「では、よい旅を。ターミナルでお待ちしております」

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 電車が動き出してから、だいたい十数分が経過した。窓の外は延々と山景色が続いている。

 辺りは真っ暗で、家々と思わしき光が点々と見える。随分田舎を走っているようだ。

 椅子に座って外の景色を眺めていた京介が、不意につぶやく。

「ここから飛び降りたら、元の世界に戻れるかな……」

 電車のスピードはそこまで速くない。怪我はするだろうが、脱出は不可能ではなさそうだ。

 直後、京介は首を振る。

「何を言ってるんだ。ここは夢のなかだぞ。電車から降りられたところで意味がないだろ?」

 ふだん理性的な彼も、今回は流石に冷静さを失っているようだった。

 その後、電車内を探索した京介だったが、予想通り他の乗客はおらず操縦席も無人だった。

 京介はため息をつく。

「やっぱり ”眠る” しかないのか……」

 佳奈の話では、電車内で眠りにつくことが、過去に戻るトリガーであるということだった。しかし、夢の中で眠るというのもおかしな話だ。

「そもそもこんな状況で寝られるわけないだろ」

 京介は恨み言を言って、椅子にどさりと座った。

「変えたい過去、か」

 少なくとも今まで大きな間違いもなく生きてきたつもりだ。小さな誤りはあっても、現状の生活に満足している以上、過去を変えることで今の生活が失われてしまう可能性の方が怖い。

 その時、ふと脳裏にある人物がよぎった。

「……いや、違うだろそれは。らしくもない」

 京介は天井を仰ぐ。

「もうどうでもいいな。昔と同じことを繰り返そう。これで何も変わらないし、全部解決だ」

 京介は椅子に浅く座って、背もたれに体重をかける。

 静かな客室に電車の音だけが延々と響いていた。

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 目を開けるとそこには知らない天井があった。蛍光灯の形がうちで使っているものと違う。身体の下に柔らかい感触があって、そこがベッドの上だと理解した。

 京介はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡す。

 見覚えのない部屋だった。京介の部屋よりも幾分広く、物も少し多い。簡素ではあるが、なんとなく女子っぽい部屋だと思った。

 妙な胸騒ぎがした。

「ここは……どこだ?」

そう呟いたとき、とてつもない違和感が彼を襲った。

(は? 今の誰の声だよ?)

 右手が自然と自身の喉へと動いた。首に触れた指から滑らかな手触りが伝わる。

「え、え」

 混乱して出たその声に、さらに混乱する。

 それは女の声だった。裏返ったとかそういうレベルではない。普段の声帯なら出るはずのない音域。

 そして喉を触った時のあの感覚。そこには、あるはずのものがなかった。

 京介の視線が下に落ちたとき、彼はついに違和感の全容を知る。

 京介はベッドから飛び起きて、部屋の隅に置かれた姿見に駆け寄った。彼の予想はほぼ確信に近いものとなっていたが、残り数パーセントに賭けたかった。

 そして自身の姿を確認したとき、その僅かな可能性さえも崩れ去った。もう認めるしかなかった。

 たしかにあの電車の中で一瞬その人のことが頭をよぎった。でも、こんなことは絶対望んでいなかったはずだ。

「はは……」

 京介の口から諦めに近い声が溢れた。彼は膝から崩れ落ちる。

 そこには桐谷高校同級生殺人事件の容疑者、青山遥香の姿が映っていた。

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