かつて自分を虐待した親に今すべきこと
前回の記事
『親は本当に「仕方なかった」のか』で、
自分の生きづらさを手放す為に、自分と向き合う時、かつて虐待した親も自分も痛みを感じないで済む、
「親は私を傷つけたが、それは仕方が無かった」
という「落し所」を見つけてはならない、というお話しをしました。
生きづらさを手放した後に、自然と「親は仕方が無かった」という本当に優しい自分になる事と、
生きづらさを手放す為に自分と向き合う最中、落し所として「親は仕方が無かった」と思い込む事は全く違う事だとお話ししました。
落し所に落ち着くことで、親も自分も痛みを感じないで済むとき、心の中の幼い日の自分は再び痛みに刺し貫かれている、と言いました。
ここで、誤解があってはいけないので今回の記事を書いています。
生きづらさは、幼い頃、自分の感情を閉じ込めて、親を優先せざるを得なかった時の、
怒りや悔しさ等の、閉じ込めた感情を解放すること無しには手放す事は叶わないと思っています。
落し所を見つけて、そこに収まることは、痛みを避けて自分と向き合うことを回避するものだと思うのです。
だからといって、現在の親を憎み、罵詈雑言をぶつける事をおすすめしている訳では勿論ありません。
幼い日の自分の、奥歯をギリギリと食いしばる程の悔しさや怒りを、
大人になり、もはや無力では無くなった今の自分が心の奥底からすくい上げて欲しいのです。
すくい上げたなら、
その悔しさを、
怒りを、
何年、何十年と封印してきた無念を、
余すこと無く、味わい尽くして欲しいのです。
本来、心の中は自由です。
これまでが、いらないジャッジが多すぎたのです。
なぜ、ジャッジが多かったのか?
自分の自然に湧き出る感情をジャッジし、
好ましく無い感情は無かった事にして、心の奥底に閉じ込めなければならなかったのです。
誰がジャッジするのでしょうか?
親です。
成長し大人になり、物理的、経済的には独立しても、親は心の中に居座り続けます。
やりたい事にストップをかけます。
楽しむ事に罪悪感を与えます。
今やれ、と焦らせます。
失敗したらどうするんだ、と脅します。
幸せになるな、と囁きます。
そんな親に対して、心の奥底からすくい上げた怒りや悔しさ、無念をぶつけたくなります。
当然の事だと思います。
幼い日の自分は、それ程辛かった、苦しかった、傷だらけだったのです。
しかし、味わい尽くす、とは、親に怒りをぶつける事ではありません。
生きづらさを手放す上で、ここは難所なのです。
落し所を見つけて、親も自分も傷つかず、相変わらず、幼い日の自分を犠牲にする時は、手放すことは出来ません。
また、封印されていた怒りをすくい上げた事で、怒りに呑まれ、親に怒りをぶつける事に囚われてしまう事があります。
何年も何十年も、親への怒りに囚われ続ける事も珍しく無い様に思います。
この場合も、手放すには至りません。
味わい尽くすとは?
なりふり構わず自分を見つめることに尽きると思うのです。
解放は自分と向き合う事から始まり、自分と向き合う事が実は全てだと思っています。
具体的には、心の奥底の怒り、悔しさ、恨み、無念をすくい上げると、当然親に向きます。
怒りを正しく怒るべき相手に向ける事はとても大事な事です。
親に怒ってはいけない、などの強い思いから抑え込むと、怒りは弱者へと向かいます。
つまり、虐待もイジメもDVも、根本の原因は抑圧された怒りが、弱者へ向う事、です。
しかしながら、自分は成長し無力な子供ではなくなりました。
親は年を重ね、弱くなります。
心理的には、まだ親に脅威を感じていても、実際はもう力関係は逆転しています。
弱くなった親に言葉であろうと積年の思いを全てぶつけるには無理があるかも知れません。
ましてや暴力に訴えても、誰も救われません。
怒りを隠して、ニコニコと笑顔を振りまかなくとも構いません。
調子を合わせなくとも良いのです。
時に語気が強くなることも、口論になることもあるでしょう。
親が知っている弱々しい幼い自分では無い自分を勝ち取るのです。
多少の軋轢は避けられない様に思います。
私は親に対しての怒りを記した大学ノートが40冊程あります。
もう見る事もありませんが、びっしりと親への恨みが書き込まれています。
丁寧に書いた部分も、殴り書きの部分もあります。
怒りは吐き出すことが重要です。
信頼のおける人に聞いてもらう事が出来れば、一番良いのでしょうが、現実的にはなかなか難しいと思いますので、
適切なSNSや、信頼出来るカウンセラーを利用しても良いと思います。
書くことも並行して行うと良いと思います。
よく自分と向き合うことが出来ない、わからないと聞きます。
生きづらさを手放したい、
自分を救いたい、と願うなら、必ず向き合えます。
その際、効率を求めない事も大切な様に思います。
いろんな角度から注意深く見ていくうちに、意外なところから、意外なことが見つかります。
他者(親)を糾弾する事が目的ではありません。
あくまでも、全ては自分の心の中にあります。
無念をすくい上げ、味わい尽くし、心理的に親を乗り越えるのです。
その先に心から、親を許せる日が来るかも知れませんし、
許す事が出来なかったとしても、感情の境界線がきっちり引けて、親が自分にとって大きな存在、恐るべき脅威では無くなります。
そうなったなら、心に居座る親は居なくなり、心の真ん中には、確かな【自分】という意識がどっかりと座ります。
自分が主人公の、自分の人生の始まりです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム
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