見出し画像

原因論と目的論 生きづらい人の心理学

心理学の大家と言えば、
ユング、フロイト、アドラーを挙げる人が多いのではないでしょうか。

ここでは「原因論」のフロイト、「目的論」のアドラーを取り上げたいと思います。

フロイトは目には見えない心の問題を体系化し、学問たらしめた功績は大きいと言えます。

フロイトの考え方は長きに渡って心理学の中心であり続けました。

その論理は、人の思考や行動には原因があり、その原因によって人は突き動かされる、という「原因論」です。


一方、書籍「嫌われる勇気」(岸見 一郎/古賀 史健【著】)の大ヒットで広く一般に知られる様になったのが、「目的論」を唱えるアドラーです。

人の悩みは全て対人関係であると言い切ります。
アドラーの論理はざっくり言うならば明快で力強い印象を受けます。
自己啓発の源流とも称されます。

例えば、営業マンが居たとします。
上半期の営業成績が振るわなかった。
その時、終わった上半期の振るわなかった原因を探すよりも、これから始まる下半期の方策を立てます。

勿論、方策を立てる上で、上半期に起こってしまったことは事実として認めながら、ではどうリカバリーするのかにフォーカスを移します。

私達が触れることが出来るのは、「今」だけです。

過去はどんなにリアルに思い出されても、それは私達の想念に過ぎません。

アドラー心理学は、過去に囚われません。

上半期は振るわなかった、ただその事実があるだけです。

その事実は変えることは叶いませんから、認めたならば、フォーカスは「今」に向きます。

「今」の結果が未来を創ります。

「今」を透かして未来(目的)が見えます。

だから、フォーカスは「今」、
向うべきは目的です。


人は誰しも悩みます。

たとえ養育者から充分な愛情を注がれて育ち、自分には価値があるという感じ方が身についた健やかな心を有する人であっても、

悩みますし、落ち込みます。

生きる限り、ネガティブな感情に支配される局面は無くなることは有りません。

しかし、健やかな心の在り方の人は、幼い頃から、自分の存在や感情を肯定的に受け止められることで、ただそこに存在するだけで、自然に自分の価値を感じられます。

ネガティブな感情に支配される場面でも、そんな感情に翻弄されることと、自分の価値はなんら関係が無く、落ち込もうとも、打ちひしがれようとも、そんな自分には変わらず価値が有ると感じていられるのです。

ところが、養育者から充分な愛情を与えられる事なく育った人は、自分には価値が無いと感じています。

無価値感に苛まれることが基本姿勢なのです。

ただそこに居るだけで許されないような、心持ちになります。

両者の一番の違いは自分の存在に対する安心感でしょう。

なぜ、ここで健やかな心の在り方の人と、無価値感に苛まれる人の話しをするかと言うと、

前述のアドラー心理学の「目的論」は、自分の存在に対する安心感が揺るぎなく有る人にこそマッチする理論だと思うのです。

私は機能不全家庭に育ち、無価値感に苛まれる子供であり、生きづらさを抱える人でした。

生きづらい人は、自分の存在は許されないと感じています。

そしてその原因は幼少期の養育環境まで遡ります。

幼少期に自分の感情を閉じ込め、親が望む良い子でいなければならなかった人は、心の中に 確かな「自分」という意識が育っていません。

自分が無いのです。

全ての事を感じる筈の、自分が無いと言うことは、全部の事が他人事と言うことです。

感じる主体の自分が無いのですから、活き活きとした実感が伴わず、虚ろな世界を漂う様に生きる訳です。

その様な状態で「今」にフォーカスしたり、目的を定めたり、といったことは、やりたくても出来ないのです。

生きづらさは、心に負った傷の現れです。

肉離れが癒えないままに、ランニングをしたなら、肉離れは悪化してしまいます。

先ずは、生きづらいなら、自分と向き合い、自分の心の傷と向き合うことが必要です。

心の傷は、遠い昔、幼少期まで遡ります。
そこに原因があります。

そして、生きづらさを手放すならば、必ずこの原因にフォーカスすることが必要なのです。


私事なのですが、生きづらい半生を生きた先で自分と向き合い生きづらさを手放すことが出来た経験があります。

その経験が有るから感じるのですが、健やかな心の在り方の人は、アドラーの「目的論」はしっくり来ると思います。

「嫌われる勇気」を読んで、生きるヒントを得た人も少なからずいるのではないかと思います。

生きづらさを手放した後の私は、「目的論」の方が自分の生きるトーンに合っている様に感じます。

しかし、今だからこそ、生きづらさの只中に在る時は、原因を見つめ、自分と向き合い、心の傷を除くことから始めなくてはならないと強く思います。

始めた方が良い、ではなく始めなくてはならない、です。

なぜなら、アドラー心理学に限ったことではなく自己啓発にしろスピリチュアルにしても、生きづらさを手放す観点から考えると、

自分の心の傷と向き合うことから離れると、また自分と向き合う準備が長くかかってしまうケースも少なく無い様に思います。

生きづらさを手放した人は、間違いなく一人残らず自分と向き合った人です。

生きづらさを手放して始めて、「今」を生きることが出来、人生の目的も定まります。

先ずは、自分と向き合うことが必要なのです。

そうして手にした解放だからこそ、解放されて尚、心への関心は深まる人が多くおられると思います。

かつては、生きづらさを手放したい一心で、それこそ必死で、生き残る術を探して本を読みました。

手放して尚、心を探求してみたいと思われたなら、

 その時は、フロイトもアドラーも、今一度読み耽ってみるのもいいと思います。

それぞれに新たな発見が散りばめられていることを、

古いアルバムをめくるように静かな気持ちで眺めることが出来たなら、

新たなステージに入った自分を実感すると思います。

何度となくお話しすることですが、

生きづらさを手放したいと願うなら、

自分と向き合うことが始まりで、

自分と向き合うことが全てです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?