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生きづらさをコトバから考える

いつの世も、「言葉の乱れ」という言われ方はあります。

私の様な昭和世代も、先輩方から言葉について指摘されたり、指導されたりという事は沢山有ります。

そして、言葉は例え間違った使い方であろうと、その使い方が大多数になった時、

大多数の使い方が正しいという事になってしまう事が多く有ります。

古典的なものばかりが良いというつもりはありません。

時代が変わろうと、人々は言葉を使ってコミュニケーションを取る事に変わりなく、

車が普及し道という道が舗装された様に、言葉も世に連れ変化するのは当然だと思います。

しかし、その変化は、先ず至ってカジュアルな場所である若者の文化やコミュニティに端を発する事が常であり、

その時代のフォーマルな場所ではどうしても受け入れられ難く、

砕けた場所ではこう喋るが、キチッとした席ではこう喋るという使い分けが当然有ります。

ところが、昨今その使い分けが出来ない人は相当な数が居て、

仕事の取引先やお客様に、私からするとワザとやってるのか?と思う程の言葉のチョイスをする若者が目につきます。

先方が年配の方だとヒヤヒヤする場面も少なくありません。

You Tubeなどで、言葉のプロとも言うべきアナウンサーの方もブロークンな日本語を使われているのを目にする事も少なく無いので、若者がそれを正しいと思っても、なんの不思議もありません。

良く聞くのが、「永遠と」です。
これは、とても良く耳にしますが、現時点では正式に認められたものではなく、全くの間違った使い方なのですが、あまりにも多くの人が当然のように使っていますので、そのうちに正しい使い方となってしまいそうな気がして、個人的にはとても嫌な感じを持っています。

当然、「永遠に」なら問題無いですが、「永遠と」は「延々と」を単に間違ってしまったものなので、これを正式に認めるのは、余りにもお粗末な気がします。


「私の方が」「あなたの方が」を「私のが」「あなたのが」と言うのもよく聞きます。

これはちょっと変わった特徴があって、手元の原稿に「私の方が」と書いてあっても、これを多用する人は、わざわざ「私のが」に言い換える傾向が強い様に思います。

という事は、知っていて敢えて「のが」を使うのは、心地よいのか、カッコいいと感じているのか、なのでしょうが、原稿は原稿のまま読む事が好ましく、私が聞いたのは、スポーツ選手のコメントを伝える人が「のが」読みで伝えていたのですが、コメント自体が軽々しく感じられ、選手が気の毒な気がしました。


ほんの二つの例を挙げさせて頂きました。

生きづらさを手放す事を考える時、形のない心を言葉に当てはめる事はどうしても必要です。

その際に、言葉を大切にする人の心に対する理解と

言葉をぞんざいに扱う人の理解は、

開きがある様に思うのです。

勿論、生きづらさを手放したい、という強い思いさえあれば、誰もが解放されることは間違い無いのですが、

例えば、文章に直接書いていない背景にまで目を届かせる「行間を読む」チカラなどは、大きな助けになると思ってます。

昨今、直接的な表現は解るけれども、比喩の様な、理解を深める為のワンクッションを理解出来ない人は少なく無い様に思います。

全てが直接的、全てが短文、全てが効率的、比喩を理解し得ない人は、得てして、世に言う「出来る人」が多い様にも思います。

ただし、「出来る人」ではあるけれど、「行き詰まる人」である可能性も高い様に思います。

比喩がわからない人は自覚が無い事も特徴です。

柔らかな心を取り戻し、解放への手がかりを掴むにも、豊かな人生を歩む為にも、

先ず、言葉を大切にする習慣を持ちたいものです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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