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愛が欲しい 幼い私のささやかな反逆

ささやかですが意を決して、そして心を粉々に砕かれたことで、この時私は何かを諦めた様に思います。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。


サンドバッグと応援団長


機能不全家庭に育ちました。
両親は、共に過酷な幼少期を過ごした者同士の夫婦です。
銘々に生きづらさを抱え、双方がその生きづらさから目を逸らす為に、私を利用しました。
物心ついた頃には、両親のサンドバッグにして応援団長でした。

両親のサンドバッグの由縁は、文字通り打たれっぱなしに打たれるからです。

両親共に無価値感が強く、自分の心のバランスを保つ為には、常に何者かを自分より劣っている、と貶めなければならないのです。

家庭内では、幼い子供は反抗出来ない弱者です。
私の箸の上げ下ろしから、歩き方から、喋り方、考え方、あろうことか顔の造作まで、全て非難、否定の対象でした。


応援団長とは、どういう事かと言いますと、無価値感が極めて強い両親には、褒めてくれる存在が必要なのです。

自分の中に価値を見出だせない為、褒めそやす第三者を必要とします。

外の世界に他人を何時もいつも褒めちぎる存在など在ろう筈もなく、家庭内で最も弱い立場である子供に、その役割を負わせます。

本来、4歳以下の子供は、親から肯定され、褒められることで、「自分には価値がある」という感覚が芽生え、育ちます。

褒められることを必要とする幼児に、親を褒め称える事を求める状態は、「親子の役割逆転」の状態であり、その行為は虐待です。

私ノゾムは、母が食事の仕度に入ると、
大変だね、手伝おうか、と労いの言葉をかけ、
食事がテーブルに並ぶと、
グルメ番組のレポーターの様に、
一品一品、柔らかくてオイシイね、などと感想混じりに褒めなくてはなりませんでした。

おかずを褒めていると、どうして味噌汁を褒めないんだ、と責められます。

かと思って、味噌汁からグルメレポートを始めると、どうしておかずを褒めないんだ、と。

何をやっても結局、責められるのです。


あげつらうことは到底できませんが、生活の全てはこの調子です。

母は少しも、おかしなことをしている、という意識は無く、
私は私で、物心ついた時には既にサンドバッグ 兼 応援団長だったので、それが普通、それが日常の風景です。

機能不全家庭では、親もその親から、そのように育てられ、それが日常。
子供は生まれた時から、この家庭しか知らないので、それが日常です。

日常だからといって、責められ続ける事が苦しく無い訳がありません。
とても苦しい毎日です。

しかし、
その家庭しか知らないので、苦しいのが当たり前なんだ、と思ってます。


ささやかな反逆の日


そんな環境に育った私ノゾムは、自分の感情はそっちのけで、ひたすら親の顔色を覗う子でした。

なので、
お菓子やおもちゃを欲しがったこともありません。
勿論、本当は欲しくてたまらないんです。
でも、親の顔色を見て、欲しい素振りは少しも出しません。

そんな私が、一度だけ黄色いミニカーを欲しい、と主張したことがありました。

4歳だったと思います。

この時の、自分の感情の動きは、やけにハッキリと覚えています。

本当は黄色いミニカーが欲しくてたまらなかった訳ではありませんでした。

自分の「欲しい」という気持ちを母から認めて欲しかったんです。

2人でおもちゃ屋の前に差し掛かった時、私は立ち止まりました。
母が「なに?」と言うと同時に、黄色いミニカーを指差しました。

心臓がまるで早鐘のようでした。

どうしてそんな行動に出たのか、わかりませんが、私は母を試す気持ちだった事を覚えています。

母は激昂しました。
私の手を取り、引きずる様に歩きながら、「そんな子に育てた覚えは無い!」と激しい口調で言ってました。

私は内心、九分九厘、こうなると結果は分かってました。

たぶん、私の最初で最後の おねだり でした。

今こうして、ハッキリと覚えているくらいですから、私の心にとっては、とても大きな1場面だったと思ってます。

いつも自分の気持ちを諦めなければならない日常。
母から喜ぶ事を求められれば喜び、大人しくする事を求められれば大人しくなって見せる。

たまらない閉塞感に苛まれていましたから、ささやかな反逆だった様に思います。

本当に ささやかですが、意を決して、そして心を粉々に砕かれたことで、この時私は何かを諦めた様に思います。

その後、母には二度と おねだり はしませんでした。

母にはと書きましたのはその後、母の母、私の祖母に一度だけ おねだり したことがありますが、その話しはまた別の機会に回したいと思います。


根っこを探す


生きづらさを引きずって歩くことは、この上なく苦しいのです。

その根っこはいつも、機能不全家庭にあります。

機能不全家庭には、親子の役割逆転があり、虐待があるのです。

残酷なのは、親も子も、祖父母も皆、機能不全家庭しか知らないために、誰も虐待の事実を知り得ないのです。

得てして、虐待した親は「自分はいい親だ」と自負し、
虐待された子供は「自分は愛された」と信じます。

それほど、自分が育った環境は機能不全家庭だと認知することは難しいですが、

もしも、ご自身が 生きづらいという自覚があったなら、幼少期の環境を改めて注意深く見てみることは無駄では無いと考えます。

一人でも多くの生きづらい人が、望む人生に辿りつかれますことを願って止みません。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム




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