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真剣だからこそ迷い込む

「生きづらさ」を手放そうとする人は皆、真剣です。

長く苦しんで、もう懲り懲りだ、と思っています。


「生きづらさ」を手放そうと願う時、通る段階があります。

細かく分けるとお話ししきれないので、大きく分けて、三つの段階に分けられると思っています。

自分の「生きづらさ」に気が付く段階、

自分と向き合う段階、

決断する段階、

定規で測った様にカチッとしたものでは無く、グラデーション掛かったものです。

たとえば、
機能不全家庭で育った為に「生きづらさ」を抱えて、長い間苦しんだ人は、

生まれた時から今日まで、苦しい状態がずっと続いているので、

その状態が当たり前なのです。

もっと言うなら、苦しくない状態を知らないのです。

だから、
自分の苦しさ、自分の「生きづらさ」に、気が付くことは、大変難しい訳です。

それでも、抱える「生きづらさ」に気が付いたのですから、

気が付いた時点で、自分と向き合い始めています。

決断に向けて気持ちが固まりつつある場合すらあります。

三つの段階は確かに有りますが、それらはグラデーションになっています。

そんな「生きづらさ」を手放す道のりに足を踏み入れた時に、陥りがちな迷路があります。

真剣で切実だからこそ、陥ってしまうのだと思います。

知らないうちに、近道を探してしまいます。

切実に「生きづらさ」を手放したいと願うからこそ、近道を探してしまうのです。

自分と向き合い、ありのままの自分を受け容れようと思っていた筈なのに、

受け入れる前に、もっと優しい自分になろうとしてしまいます。

もっと強い自分になろうとしてしまいます。

今と違った自分になろうとすることは、ありのままの今の自分を否定することになってしまいます。

幼い頃、自分の感情に蓋をして、親の望みを優先したことが、抱える「生きづらさ」の原因なのに、

今また、自分と向き合う中で、
「確かにかつて自分は虐待されたが、親には親の事情があって、仕方が無かった」と、

物わかりの良い 優しい 自分になることは、

原因から目を逸らし、都合の良い落とし所を設けたに過ぎません。

そうすることで、
かつて虐待した親は、仕方が無かった、ことになり、
今の自分は、優しい、ことになります。

無理に作った落とし所に落ち着くのは、

自分と向き合うことからは、離れてしまっています。

ありのままの今の自分を否定している、
受け入れることを拒んでいる、と言えます。

ありのままの自分を受け入れることを、拒んだ時点で、「生きづらさ」を手放す日は遠退きます。

優しい自分に変わろうとせず、

強い自分に変わろうとせず、

ありのままの今の自分を受け容れた時、

はじめて、

「生きづらさ」から解き放たれ、

結果として、変わる、のだと思います。


真剣で、切実であるがために、

探してしまう近道は、

要注意の迷い道です。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム











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