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Mr.Childrenと戦後日本②ー2020年の「日常」の形成


1. 「小さな善」で購われる「日常」

…この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。【1】

まんが原作者・批評家の大塚英志は、目下のコロナ状況下に政府が提唱した「新しい生活様式」から想起されたという戦時下の「日常」や「生活」に、当時の編集者や作家がどのように「貢献」したかについて記した記事の最後をこのように締めくくっている。
 なぜなら、「『日常』とか『生活』という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介」であり、戦時下にデザインされた「日常」や「生活」の果てに今現在の「日常」「生活」があるからであるという。

この逃げも隠れもできない「今」の「日常」を形作っているある種の「イメージ」が、直近の10~20年程の間にどのように形成されてきたか?

その「歴史」を描き「今」を解き明かすためのアイデアの一つとして、ポピュラーミュージックという文化ジャンルにおける、ある有力な具体事例の分析を試みることが、この文章の目的である。

潜在的なヒントとなったのは、大塚が別の場所で今の日本社会について気にかけていたことだった。

大塚が「とても気になる」と述べていたのは、近年の様々な「批評」が、「社会」を個々人の小さな善意で購える程度のものとしか捉えておらず、そのようなミニマムな「世界」に同一化した「私」のことを懐疑しようともしていないということだ。

その「名」はともかく「小さな善」を見出した場所とは、(中略)「理念」つまり「近代」が去った後で人々が撤退していった先の場所ではないのか。【2】

「小さな善」を行う「日常」、というイメージから自然と思い浮かんだのは、―「国民的バンド」とも形容される―Mr.Childrenの、いくつかの歌だった。


2-1. 頬が染まる暖かなピンク―『彩り』

今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な人種になれた気がして
夜が明けて また小さな庶民
(中略)
なんてことのない作業がこの世界を回り回って
何処の誰かも知らない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 増やしていく 水色 オレンジ

(Mr.Children「彩り」/2007年)


Mr.Children『彩り』。「社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事」について硬派な議論をする自分自身のことを相対化する一方で、「小さな庶民」として生きる「日常」を、「なんてことのない作業」を「生き甲斐」として暮らす生き方を称える。

ここに、(孫引きにはなってしまうが)文頭の大塚の記事内で参照されていた村岡花子「隣組ノート」内の言葉を並べてみよう。
 「宣傳(宣伝)のための實踐(実践)」とは、戦時下での「勇ましい男文字の新体制運動」を指すとのことである。

子供も大人も一緒になつて宣傳のための實踐をするのは感心しないが、眞實の意味に於ての日常生活をとほしての職域奉公の實踐を私は自分の隣組の目標として行きたい。
(村岡花子「隣組ノート」、大政翼賛會宣傳部編『随筆集 私の隣組』)【1】

時代背景も目的も異なるこの2つのテキストを並置するのは無理がある…だろうか?
 むしろ政治体制が異なるにも関わらず、そのような体制の下での「大きな出来事」に関する「宣傳」や「議論」からは心情的に距離を置き、代わって「日常」の実践に重きを置こうとしている点で、似通っているのではないだろうか。


2-2. 幸せなんかそこら中いっぱい―『ひびき』

もう1曲、「大きな出来事」が起こる世界と「日常」とを区分している、「彩り」と同時期のミスチルの曲を挙げてみよう。

去年の誕生日 クラッカーを鳴らして
破裂する喜びに酔いしれていたけど
外を歩いたら銃声が聞こえる
あの場所じゃ その音は 悲しげに響くだろうな
君が好きで 君が好きで 涙がこぼれるんだよ
血生臭いニュース ひとまず引出しにしまって
風のように 川のように 君と歩いていく

(Mr.Children「ひびき」/2006年)


わざわざ「外を歩いたら銃声が聞こえる」戦場の光景を思い浮かべた後、その光景は「引出し」の中に格納してしまうこととし、「幸せなんかそこら中いっぱい落ちてるから」と、好きな「君」と歩んでいく日々に幸福を見出そうとする。

2004年のレコード大賞受賞曲「Sign」は、「大きな世界」こそ描いていないが、「ありふれた時間が愛しく思え」るような、日常の中の愛を歌ったラブソングだった。
「ひびき」も同様の路線のラブソングであるといえると思う。


2-3. 繰り返していくことが愛しい―『HERO』

このような「大きな世界」と対比させつつ日常の暮らしの中に幸せを見出そうとするミスチルの詞世界の萌芽は、1990年代半ばの大ブレイク期、97年から98年の一時活動休止期を経て、99年のアルバム『DISCOVERY』の頃から見られ始めるものだが、決定的に重要な曲として挙げるとすれば次の一曲であることに、異論は少ないだろう。

例えば誰か一人の命と 引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
愛すべきたくさんの人たちが
僕を臆病者に変えてしまったんだ

(Mr.Children「HERO」/2002年)


「HERO」が興味深いのは、この曲の詞世界における「日常」と「大きな世界」の解釈について、受け取り手によって微妙な違いがある点だ。

世代の異なる2人の売れっ子「社会学者」による「HERO」への言及に、その解釈の違いがもっとも端的に表れている。

「HERO」収録アルバム『シフクノオト』に”「あえてする日常へのコミットメント」へ”と題したレビューを寄せた宮台真司は【3】、そのレビューとは別の場で、「HERO」に込められているというアイロニーについて次のように解説している。

宮台によれば「HERO」には、読解力が高くないリスナーは「私生活主義ソング」として受け取ってしまいかねない、高度なアイロニーが込められているという。

しかし「だけの男だ」に込められているのはアイロニーです。桜井は戦争で苦しむ人たちを助けるNPOを立ち上げました。解読するとこうなります。「公への貢献は大切に決まっている。でもそれに比べて私生活の価値が劣るなどということは絶対ありえない。私生活の価値こそが至上であることを知ったうえで、公に貢献するしかありえない。それ以外の公は全部嘘だ」。※1【4】

その上で宮台は、「HERO」のような優れた曲があっても、その意義を理解できるリスナーがいないと嘆く。

一方で古市憲寿は、「若手論客」として認知されるきっかけとなった著作『絶望の国の幸福な若者たち』(2011年)に収められている俳優・佐藤健との対談の中で、「HERO」を取り上げている。

古市:ミスチルの『HERO』って歌がありますよね。主人公は、世界中の命が救われることよりも、身近な人との愛を大切にしようとする。公の「大きな世界」よりも、愛すべき人たちのいる「小さな世界」を守ることがテーマになっています。佐藤さんも、この歌に共感しますか?
佐藤:はい。いやあ、絶対そうじゃないですか。ほんとに身近な人より世界中の人を大事に思える人がいたらスーパー尊敬しますけどね。いるのかもわからないですけど、ほぼいないですよね、そんな人は。
古市:無理ですよね。
佐藤:ビックリマンですよね。すごいですよ。【5】

宮台が「HERO」を、単なる私生活≒日常主義の歌ではなく、公へのコミットメントの価値も仄めかしていると解釈するのに対し、古市と佐藤の対話からは、「大きな世界」と「小さな世界≒日常」とを対比させた上で、前者に対してのデタッチメントの感受性を窺うことができる。

『シフクノオト』に、ミスチルの中で最もメッセージ色の強い、反戦歌と言って差し支えないであろう「タガタメ」に続くラストトラックとして収録されているというコンテクストや、「駄目な映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく」という歌詞の意味を踏まえるのであれば、宮台の解釈の方が説得的であるとはいえる。
 むろんそのことを古市が理解していないとは思わないが、『絶望の国の幸福な若者たち』で古市が描き出した若者像に適合的なタレントであり、かつミスチルファンでもある佐藤にインタビューするにあたって、このような対話の流れで「HERO」に触れたのだろう。

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「彩り」を収録した2007年のアルバム『HOME』について、当時37歳だった桜井は、このアルバムのリスナーとして想定する世代について問われた際、自分が生活の中で関わっている人々の年代をどこかで想定しているといい、「…『HOME』を作ってる時に、『自分達にとってはいい作品だなぁ』と思ったけど、『ほんっと若い子達はわかんないだろうなぁ』って心配ではあった」と話している。【6】

おそらく、桜井は少し読み違えている。
 「若い子達」の多くは、「彩り」をはじめとする『HOME』の暖かな楽曲たちを、すんなりと「受け入れた」のだと思う。

中学卒業直前の時期に新譜として発売された『HOME』を買いに行った「若い子」の内の一人であり、2010年代前半に大学生活を送って「小さな善」を実践するかのようにボランティア団体の隅っこに出入りし、生活満足度や幸福度が高く「コンサマトリー(自己充足的)」化している「幸福な若者たち」であると古市に名指された世代である筆者の、実感としてそう思う。※2

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「大きな世界」を視野に入れつつもそれ以上に、「今、ここ」の身近な生活に幸福を見出す生き方を称揚してきた―あるいはそう強調して読解されてきた―Mr.Childrenの音楽。

あと1曲、ミスチルについての知識がなく「HERO」や「彩り」を知らない人でも、おそらく知っているであろう曲を挙げてみたい。

それはMr.Children名義の曲ではない。ミスチルの「双子の兄弟」にあたるバンドで桜井が歌ったカバー曲だ。


2-4. 心許なくてふるえてた「私」―『糸』

宮台が着目していた「HERO」の「~だけの男だ」という歌詞について、ジェンダーの観点から言及できることがあるとすれば、それが旧来的な意味で「男らしくない」自分を受容している、言い換えれば古典的な「世界を救うヒーロー像」というある種の「男らしさ」を取り下げた点だ。

男らしさって一体 どんなことだろう?

(Mr.Children「Over」/1994年)

失恋した時にこのように悩む一方、「窓に反射する(うつる)哀れな自分(おとこ)」(innocent world/1994年)にはナルシシズムを感じてしまうような、「男の欺瞞と都合に満ち満ち」た主人公を歌っていた20代の桜井も【7】、30代になるとナルシスティックな自己像を、「甘えていた鏡の中の男に今復讐を誓う」(優しい歌/2001年)と拒絶するようになる。

それに代わって桜井が得たのは、戦中に婦人雑誌の編集者であった花森安治が男性ながらも備えていたような【1】、ある種の「女性性」的な感性であった。

「彩り」収録アルバム『HOME』を特集した雑誌インタビュー内の対談で、桜井は実際に女性的な感性への憧れについて語っている。

僕もそうだけど、9.11以降、それまで信じていたアメリカ的な価値観が崩れた時に、ヒステリックなくらい一生懸命になって、次の価値を探したんだけど、最近そうじゃないんじゃないかって思うようになってきた。一つの価値を否定するために新しい価値を生み出すよりも、いろんなものを信じたり、疑ったりするバランスの中でぼんやりと見えてくる女性的な感じが大事なんじゃないかなって。【8】

そう語る桜井が、これまで見てきたような「日常」を大切にしようとする姿勢のままに歌ったある女性の歌は、桜井が自作した曲ではないのにも関わらず、普遍的に説得力のあるメッセージとして受け取られ、他のシンガーの歌唱によって大衆に広まり、結婚式のBGMやカラオケの定番といった「日常」の様々な場面に入り込んでいった。

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
(中略)
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合せと呼びます

(Bank Band「糸」/2004年/原曲:中島みゆき)


「出逢」った2人以外の他者(あるいはその延長線上にある社会)に対し、「温めうるかもしれない」「傷をかばうかもしれない」といった表現でコミットメントの可能性が描かれてはいるものの、あくまでその起点には大切な人との「出逢い」がある。
 日常の中にある大切な人との「繋がり」によって「仕合せ≒幸せ」でいることによってこそ、「心許な」い「私」でも、「誰かを温め」たり「傷をかば」ったりするような、「小さな善」を生み出せるようになるというわけである。

桜井が「彩り」や「糸」のメッセージに説得力を持たせ得た理由としてもう1点、やはり彼自身のキャラクターについては言及しておきたい。

やや唐突だが、再び大塚英志の、連合赤軍事件のジェンダー分析を試みた批評を参照しよう。
 大塚は、連合赤軍事件で犠牲となった女性たちには、80年代消費社会へと通底していくサブカルチャー的感受性があったと述べている。「総括」によって多くの若者が殺害された山岳ベースにおける彼らの中での対立は、革命路線の違いによるものではなく、時代遅れになりつつあった男性たちの理論的な「新左翼」の言葉と、時代の変容に忠実に反応しつつあった女性たちの消費社会的な言葉であったという。
 その象徴が、「総括」の犠牲となったある女性メンバーが、指導者の立場にあった男性メンバーに投げ掛けた「目が可愛い」という言葉であった。男性リーダーはこの言葉に「子供扱いだ」と怒りを露わにした。【9】

一方の桜井は、「かわいい」を肯定的に受容する。
 桜井は2010年にNHK-ETVで放送されていた「佐野元春のザ・ソングライターズ」に出演した際、佐野に「女性に言われて嬉しい言葉は?」と問われ、―照れ笑いをしながら―「かわいい」と答えた。

そして桜井のキャラクターを、特に女性ファンは、しばしば「かわいい」と形容する。

とりわけ、2007年の『HOME』リリースに伴って行われたスタジアムツアーで、ピンク色のステージ衣装を羽織って笑顔をほころばせながらパフォーマンスする彼の姿は、「かわいい/桜井さん」というパブリックイメージの形成に大きく寄与したように思う。


上記に挙げた2事例は、「かわいい」と表現「された」時の男性のリアクションとして好照的を成す。
 既に「彩り」を取り上げて見てきたように、桜井は不景気ながらも「クリック/ドラッグ/R&R/何だって手に入る」(終末のコンフィデンスソング/2008年)消費社会の中で暮らす「日常」を受け入れていたし、だから消費社会的な言葉である「かわいい」の語に対して抵抗を感じることもなかったのだろう。

その基盤となっているのは、身近な人との繋がりを大切にしながら生きる「日常」を肯定しようとする、既出のミスチル論では「関係性」によって「自分らしさ」の構築を試みているとも指摘されるような桜井の詞世界と【10】、古市が見出したような若者世代の特性が重なり合った、平成後半の文化と社会との関連性だったのではないだろうか。

ただし、ある種の「女性性」を纏った「かわいい」桜井が、ジェンダー論的に進歩的かといえばそうは言えないだろう、ということは最後に記しておかざるを得ない。ライブMC等でのややジェンダーバイアスのかかった発言もいくつかあるが、ここでは最後に曲の主人公を明示的に女性として設定している桜井作品を取り上げよう。

主人公の<私>は、20代後半で「モデル」をしている。

毎晩オサカンな 無名時代の友と
長距離電話 そんでもって 彼女が言うには
「こんな事聞いて誤解しないでよ
縛られるのって 結構気持ちいいかもしんないな」

(Mr.Children「デルモ」/1997年)

ここで、かつて江藤淳が田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1980年)に与えた高評価に対する、大塚英志による批判と同型の指摘を、ミスチル「デルモ」に対しても行うことが可能だ。

男性作家によって書かれた『なんとなく、クリスタル』は、主人公をやはり「モデル」をしている若い女性と設定し、彼女が人工的な「近代」を内面化し<私>として自立して生きているにもかかわらず、一方で恋人の男性のコントロールの下に所属する存在として描いてしまっているために、主人公を<女><母>といった旧来的なジェンダー役割に押し戻してしまっている。【11】
 一方の「デルモ」はたしかに、「ちょっぴり涙」も出てしまうような、「近代」を生きる女性の葛藤を正確に捉えてはいるが、それでも主人公の心情はどうしても「縛られ」ること、「結婚」「恋」「子供」そして「母」の方に引き寄せられてしまっている。

結婚であったり 恋が女の 全てじゃないにしても
心にポッカリ空いたまんまの 穴を何が埋めてくれるの
嬉しいよな 悲しいよな 時には涙 モデル

母の優しき面影を 追いかけて唄う ふるさとの子守唄

(Mr.Children「デルモ」/1997年)


3. 結論―怖いもの見たさで愛に彷徨う僕もいる

身近な人間関係によって成立している「ミニマムな世界」の中に幸福を見出し、その関係性を起点として「小さな善」を行うという姿勢は、もちろんそれ自体は否定されるものではないが、一方で大塚が指摘していたように、公共性から撤退し、理念としての「近代」を放棄することにも繋がり得る。
 「小さな善」の実践が生み出すものが誰かの「笑い声」や「笑い顔」、あるいは誰かを「暖めうる」といったポジティブなイメージを纏っているのに対し、政治権力への批判やハラスメントへの批判は、民主的に社会を営んでいく上で必要不可欠であるが、直ちに人を笑顔にすることはない。

むしろ、「日常」から離れた「大きな世界」について批判的な態度をとることは、「日常」を彩りあるものにできない者の「逃げ」であるかのように捉えうる。
 「時代とか社会とか無理にでも敵に仕立てないと見方を探せない」(ランニングハイ/2005年)という自己批判的な歌詞もあり、たしかに個人的な問題の背景の全てに社会の問題を見出すことはできないしそれを峻別するストイックさも必要だろうが、だからといって社会に問題がないということにはならないし、それを批判することが自己の弱さからの「逃げ」になるというわけでもない。
 しかし、これまで論じてきたような桜井和寿が紡ぎ出してきた世界観の中では、政治や社会に対して批判的なコミュニケーションを行うことに対するハードルはどうしても高くなってしまう。

2004年に「タガタメ」が日清食品のCMタイアップに採用された際に発表された桜井のコメントの中に、次のような一文がある。

ふとしたとき、意味もなく口ずさんでしまう「POPソング」は
人の心の深層に刻まれ、作用していくのだと思う。【12】

Mr.Childrenは数多くの良質な「POPソング」を生み出し、商業的にも大きな成功を収め、幅広い世代の男女にファンがいるバンドである。
 だからこそ、彼らの音楽が「人の心の深層に刻まれ、作用して」いったことは、今日の日本社会における「日常」という語のイメージの形成にも、―その評価は別として―少なからず「作用」したように思う。まさか誤解はないかと思うが、現代はもちろん戦時下ではないから、それが明確な政治的な意図の下で行われたということはあり得ず、ただあくまで「結果として」、2020年の現在地点から振り返ってみれば、このように機能してきたと見ることもできるのではないか?ということだ。

その結果はMr.Childrenのみに帰責できることではなく、我々受け手側に委ねられている部分も少なからずあったことは、「HERO」の解釈の違いについて論じた箇所で示したつもりである。

もう一つ付け加えるならば、2010年代に入ってからの桜井は、リスナーの「想像力」のレベルについて懐疑的であるという、―かつて宮台真司が嘆いたのと同じような―趣旨の発言を何度かしており、その「想像力」という語からは彼らが自らの音楽を「大きな世界」へと再接続させようとする意図を感じることもできるのだが、ここでは一旦置く。

―――――――――――――――――――――

最後の最後に、今の日本社会に対してクリティカルなメッセージ性を放っている―とも解釈できる―、2017年に公開されたMr.Childrenのミュージックビデオを共有したい。

戦火に覆われる街で、主人公の男は「透き通るほど真っ直ぐ」な、傷を負った愛する女性を病院に見舞いに行く。
 繰り返しになるが、現実の今の日本社会は戦時下ではない―でも、このMV内で描かれている戦場は、「何か」のメタファーなのかもしれない―。

私たちは、大切な人たちと共に暮らす日常の中で「血生臭いニュース」は一旦見ないこととし、身の周りの幸せを拾い集めながら暮らすことができる、はずだった。

でも今では、私たちが暮らす街が戦場となっている。なぜか?

MVの途中で、男は兵士として戦争に参加し、殺戮に加担していたことが明らかになる。
 すると、爆撃が病院を襲い、2人は屋外へと放り出され、離れ離れになる。辛うじて生き残った男は「暗がりで咲いてるひまわり」を見つけ、それが彼女の分身であることを悟り、彼女に会うことはもう二度とできないことを知る。

男が兵士の仮面を被って行進する場面には、こんな歌詞が重ねられている。

諦めること
妥協すること
誰かにあわせて生きること
考えている風でいて
実はそんなに深く考えていやしないこと
思いを飲み込む美学と
自分を言いくるめて
実際は面倒臭いことから逃げるようにして
邪(よこしま)にただ生きている

(Mr.Children「himawari」/2017年)




※1:「戦争で苦しむ人たちを助けるNPO」とあるが、正確には環境保全活動等への融資を行う目的で設立された「一般社団法人APバンク」のことを指すと思われる。
 また宮台は「HERO」について、2003年のイラク戦争に触れているとの解釈をいくつかの場で語っているが、「HERO」は2002年にリリースされている曲なので、ここも広義に「9.11後のアメリカの対テロ戦争」程度に捉えておいた方がよいと思われる。もちろん、そのことによって宮台による「HERO」評の意図が揺らぐわけではない。
 桜井は「HERO」創作の発想を得たきっかけとして、9.11で犠牲になった警察官や消防士がヒロイスティックに称えられている様子に違和を感じ、「…普段着の汚い恰好でも、子供を公園で遊ばせているお父さんやお母さんのほうが、その子にとってのヒーローなんじゃないか?」と考えたことを語っている。【3】

※2:経時的に実施されている社会学者による若者調査の、好きなアーティスト1名(組)の自由記述の回答集計結果を見ても、2002年調査に引き続き2012年調査においても、Mr.Childrenは根強く支持されていることが明らかになっている(もちろん母数全体から見れば、「若者の音楽嗜好は細分化されている」という以上のインプリケーションはない程度の数ではあるが)。【13】




【参考資料・文献】
【1】大塚英志, 2020, 「「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち」|webちくま.
【2】大塚英志, 2019, 『感情天皇論』 筑摩書房.
【3】『別冊カドカワ 総力特集 Mr.Children』 2004年.
【4】宮台真司(編), 2004, 『教育「真」論―That’s Japan Special 連続シンポジウムの記録』 ウェイツ.
【5】古市憲寿, 2011, 『絶望の国の幸福な若者たち』 講談社.
【6】『MUSICA』 2007年12月号.
【7】鈴木涼美, 2018, 「僕らがミスをチル理由 | ニッポンのおじさん」 cakes(ケイクス).
【8】『別冊カドカワ 総力特集 Mr.Children』 2007年.
【9】大塚英志, 2001, 『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』 角川書店.
【10】阿部真大, 2013, 『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』 朝日新聞出版.
【11】大塚英志, 2001, 『江藤淳と少女フェミニズム的戦後―サブカルチャー文学論序章』 筑摩書房.
【12】「日清カップヌードル 新広告展開-「NO BORDER」TVCFオンエア開始のご案内」, 2004年.
【13】木島由晶, 2016, 「Jポップの20年―自己へのツール化と音楽へのコミットメント」 藤村正之・浅野智彦・羽渕一代編『現代若者の幸福―不安感社会を生きる』 恒星社厚生閣.

Mr.Childrenの歌詞全般) Mr.Children, 2018, 『Your Song』 文藝春秋.

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