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パクられたってあなたはあなた


この記事は

友達に何かをぱくられてモヤってしたり
◆ものが被られるのが嫌な人(推しとかも)
物欲がとまらないひと
◆何かがたりないとなんとなく思っている人
◆買い物がストレス発散だけどなんとなくそうしてしまう自分に罪悪感が湧いてしまう人



に見て欲しいです❣️

こちらの記事にも書きましたが
私友達に全く同じウェットスーツをパクられたんです笑

そしてその出来事にすごくもやっとして

でもそんなこといちいち気に留める
小さな自分がいたから、 

そんな自分から変わりたかったから、、、

今じゃもう心も穏やかで、
なんなら物欲も少なくなりお金も溜まり笑
お盆の時期にオーストラリアへ
リトリートに参加してきます。

Australia
byronでのステイ先
ステイ先テラスからの景色


あなたも心だけでなく経済的にも余裕のある
自分を目覚めさせませんか😉


ある女性のエピソード

woman who run with the wolves
こちらの本からの引用なのですが
大切な響きあるお話

オーストラリアでのステイ先で愛読


あるカウンセラーが
余命が残り少ないがん患者の女性に会いにいきました。
がん患者の女性が、今日はやけにがっかりしていたので
カウンセラーが「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪がなくなったという。

金銭的な価値もさることながら、
とても思い出深い品だった。

「きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない。病人に対してよくもそんなひどいことができるものだ。」と言って、
その女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいかと悩んでいた。

カウンセラーは
指輪であれどんな品物であれ、いまのあなたにとってどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と助言した。
「あなたにはおわかりにならない」と彼女は言い返した。「あれは祖母からもらったただの指輪じゃない」とのこと。

するとカウンセラーは
その指輪を手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」と質問した。
初め彼女は「そりゃ、もちろん損なわれるわ』と返事をしそれからもう一度、問い返してみました。


は損なわれるだろうか?」


するとにっこり笑い 失われない、
私は私と気づいたという。


その後彼女は言った。「いまようやく、これまでどうしてもわからなかった『下着を取ろうとする者がいたら、上着も与えなさい」というイエスの言葉の意味が理解できました」と

カウンセラーは答えた「その言葉は、決してドアに鍵をかけるな、という意味じゃありません。ときにはモノを手放すほうが、守ったりしがみついたりするよりもはるかに力強い行いだ、という意味なんですよ

身体がますます衰弱していった最後の数週間、いろいろな人にたくさんのモノを分け与え、そのなかには指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。そして亡くなったあとで例の指輪がバスルームの薬品庫にあったという。


モノに誇りをもつのは間違ってる?

自分のこだわりのモノたちに誇りをもったり、
自分より豊かな人をうらやんだりするのは
間違っているのか?
そんなことはないです。

私もよくあの人のライフスタイルいいなぁとか、
あれほしいなぁと思います。

誇りや目立ちたいという思いや、
「もっと多く」によって自分が強化され、
「より少なく」によって自分が小さくなる
そうゆう一般的な思考は
社会生活を送っていれば
染まってしまう、入ってくる・きてしまう
思考なので☝️

だけれど、

モノを評価して大切にするのはいいけれど
それに執着を感じたら、それはエゴで

『私(I)』『私の(my)』『私のもの(mine)」という思考に執着しているということ。

おもちゃを奪われて泣く子どもがその代表。

あなたや私の中身は
環境や育ち、文化によって条件づけられる。

それによって「私の、僕の(my)」という言葉に隠されている、モノとの結びつきによって自分のアイデンティティを強化したいという無意識の衝動がわたしたちの心に住み着いてしまう!

まさにこの時の私!
今思うとあの出来事に対する解釈が全然違くてほんとにあの嫉妬は学びのレッスンに変わった!
例えば、

・推しがかぶると嫌とか(韓国でもジャニーズでもディズニーでも)

そうゆうのもこれなんだと思う。
彼を応援してくれるの嬉しいけどなんか嫌とかね
ちょっと恋愛とか独占欲も入ってると思うけど!



買いたいの裏側👀


私たちは基本消費者だから
これは売る側の話なんだけど。
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広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、
それをもっていると自イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければならないと知っている。
言い換えれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。たとえばこの製品を使っているとひときわ目立ちます、だからもっとあなたらしくなれますよ、と言う。
あるいは製品から有名人を、それとも若くて魅力的で幸せそうな人間を連想するように仕向ける。昔の人や故人となった有名人の最盛期の姿でもかまわない。このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いてあなたは彼らのようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、ということだ。だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンティティの強化」を買う。デザイナーズブランドは集団的アイデンティティの最たるものである。デザイナーズブランドの製品は高価だから「排他的」だ。誰でももっていたのでは心理的な価値はなくなり、残るのは物質的価値だけになる。それは値段のほんの一部でしかないだろう。
何にアイデンティティを感じるかは、人によって、年齢や性別や所得、社会階層、流行、文化などによって大きく異なる。そして何にアイデンティティを感じるかは、エゴの中身と関係する。
逆に、いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力がどうしてもうまくいかないからである。エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて買い続け、消費し続けなければならない。
もちろん私たちの表面的な自己が生きている物理的な次元ではモノは必要だし、暮らしに不可々である。住まいも衣服も家具も道具も乗り物も必要だ。それに美や固有の質のゆえに高く評価されるものもあるだろう。私たちはモノの世界を毛嫌いするのではなく、尊重しなければならない。モノはそれぞれ、すべてのものや身体や形の根源である、形のない「生命」に起源をもつ一時的な存在としてあるのだから。



だからもし、ファッションだったりなんだったり
買うなら、それはあなたにとってお気に入りでいて、一流でいてその時でも一生大切にしようと思うモノなの!

売る側に踊らされないこと。


とてもグッとくる動画


でも大前提に大事なことは
もう、すでに持っている
私たちは足りていると気づくこと。


素っ裸の自分でいて素敵
だからパクられても何もあなたの価値
who you areは変わらない。

素敵な背中のライン



自分とモノの結びつきを知ってみる

「わたし」を振り返り、
モノの世界との関係、とくに「私の(my)」という言葉を付されるモノとの関係を見直してみると、ちょっと言っていることがわかるかも☺️

たとえば自尊心が所有物と結びついているかどうかを判断するには、

超正直に自分に話しかけてみる🫣

あるモノをもっているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか優れた人間だと感じないか?何かが分けていると、たくさん所有している人に劣等感を感じないか?他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引き上げるために、さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか?誰かがあなたより多くをもっているとき、あるいは大事なものをなくしたとき、恨みや怒りを感じ、自分が小さくなったように感じることはないか?

私はよくカルティエの時計つけたらちょっと見えるように袖をまくったりとかしてたし、😅
その時計つけてる時はちょっと自信もついて高そうなお店にも堂々と入っていけてたなぁって思いました笑


ありがちな物へのとらへかた👠

私がパクられてもやもやしてたその意味、
それは私が気付かないうちにエゴが
関係していたんだけど、


何をしてたかというとモノに自分を同一化していたの。物質がもっているかに見えるパワーとか価値のおかげで自分にもそのパワーや価値が付与されるはずって無意識に思い込んでいた。

高いもの身につけてたら自分が大きくなるってやつ。でもそれは人と比べて生まれるから、だからパクられたらその人も自分と同じ大きさになってしまうから焦ってたのよね🐢


A NEW EARTH🌏新しい考え方

この本からの引用なんだけど、
この文を読むと余計、
私は全て持っている。もう十分だ
にたどり着く。



所有と「私」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も農かになる、と考える。エゴは比較のなかに生きている。私たちは、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める。誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自己意識を高めるのには役立たない。それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思うことで、自分のアイデンティティを取り戻すことができる。他人にどう見られるかが、自分はどういう人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結びついている。自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらいもっているかでほは自尊心が決まる社会での満足は比較的薄っぺらで短命だ。そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。エゴが「私はまだ充分にもっていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。特別な存在にするために創り出したフィクションである。
「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。これが「欲望」である。エゴは、もっと必要だという欲求なしに長いあいだ過ごすことはできない。だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。だから所有がもたらす薄っぺらな満足はつねに、もっと欲しいという欲望にとって代わられる。もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという心理的な要求である。ほんとうに必要なのではなくて、依存症的な要求なのだ。
エゴの特徴であるもっと欲しいという心理的な要求、まだ充分ではないという思いは、場合によっては肉体的なレベルに移行して飽くなき飢えとなる。過食症患者は吐いてでも食べ続ける。飢えているのは心であって、身体ではない。患者が自分を心に同一化するのをやめて身体感覚を取り戻し、エゴイスティックな心を駆り立てる偽りの要求ではなく身体のほんとうの要求を感じるようになったとき、摂食障害は治癒する。どれくらいもっているかでほぼ自尊心が決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。それまでは、自分はモノに執着していると気づくだけでいい。対象を失うか失う危険にさらされなければ、何かに執着している、つまり何かと自分を同一化していることがわからないかもしれない。失いそうになってあわてたり不安になるなら、それは執着だ。モノに自分を同一化していると気づけば、モノへの同一化は完全ではなくなる



おわりに📖

◆友達に何かをぱくられてモヤってしたり
◆ものが被られるのが嫌な人(推しとかも)
◆物欲がとまらないひと
◆何かがたりないとなんとなく思っている人
◆買い物がストレス発散だけどなんとなくそうしてしまう自分に罪悪感が湧いてしまう人


どうでしたか?

私たちは日本に生まれて、
ほんっっっとうに恵まれています。



もうすでにもっていて
付け足す必要なんてないんです。


素っ裸の自分でいて
大事なのは自分の中にあって、
あなたはあなたでもう足りている。

だからパクられても何もあなたの価値
who you areは変わらない。


パクられたって
あなたはあなた♫

もやもやなんかせずに自信をもって😉


最後まで読んでくださって
ありがとうございます✨🐚🌸



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