nami03221202
姉を幼少期からデブと罵り 早死にするぞと言いつづけ。自分の都合で家を追い出したり、来いと言ったり。挨拶しても返事すらしないくせに挨拶もしない、もてなしもしない、だらしない、親も親なら子も子だなと罵り、お前の家族は崩壊しているとまで言ってきた祖父。 なのに、叔母は愛情の裏返しと言う
祖母は入院生活が続いており、祖父も看病をしに病院に行く日々が続いた。 私たちは祖母がある程度状態が安定してきたので心配も少なくなっていた。 祖母の生命力を信じ、「あと2、3年は生きるだろう」 となんて考えていた。 でも、事態は急変し始めた。 その原因は祖父 祖父が 「祖母を病院で入院させたままで最後を迎えるのは嫌だ。 家で看取りたい。だから退院させると」 あまりに無茶な言い出しに家族も、病院側もかなり渋った。 状態が安定しているとはいえ完全に安心できる状態ではなかっ
祖父母との関係は高校時代も卒業後も変わらず微妙なままだった。 大学生時代もたまに会いにいくのみの生活。 でも、この辺から祖父母の間の関係性と私たち家族の関係性は大きく変わっていった 祖母はかなり足が悪く 以前の家での近所の人たちの人間関係や祖父との関係が原因でうつ病とうつ病による不眠症に悩まされていた。 仕事に明け暮れる両親とバイトに明け暮れる私。 学校で忙しい姉はその頃になると年に1回程度しか会いに行かなかった。 母もこまめに連絡するタイプではなく、母の日やお中元など
祖父母の言葉と両親の心配をとことん無視して韓国2週間の短期を終え日本に帰ってきた。 帰ってからは、バイトと学校、独学で韓国語の勉強を始めた。 この頃は自分の学歴に本当にコンプレックしかなかった。 だから「語学」という武器を身に付けたくてしょうがなかった。 その頃の私は勉強は嫌いではなかったが、学校は嫌いだった。 幼稚園の頃から集団行動が嫌いで、中学になると学校という社会が嫌いで、その空気が嫌いで、高校ではその影響とたった5人のクラスで私はいじめに遭い学校にいくのがさらに苦
私が学校を転校してからというものの、生活は大きく変わり始めた。 私は、通信制であったが週に3回学校に通いバイトも始めた。 父は帰宅するのが深夜を回っていたので顔も合わせることもなく、話すこともなかった。 母は学校を転校してもいつものように接してくれ、辞めたことに対して何にも咎めることもなかった。 バイトも始めたのでバイトの愚痴などもよく聞いてくれ、この頃は良好な関係を保てていた。 姉は相変わらず、顔を合わせれば喧嘩ばかりなので、私たちは顔を合わせず会話もしなかった。
中学を卒業し高校生になると、さらに環境は変化していった。 祖父母との関係は相変わらず。 両親は喋らず、祖父母はたまにきては文句を言う毎日。 私自身も忙しくなり、祖父母の家に行くことは無くなっていった。 私自身もこの頃からさらに、両親及び家族との亀裂がどんどん深まり始めていったのだ。 そのきっかけは「いじめ」 私は高校生に入ってすぐ、部活動でいじめを受け、クラスでもいじめを受けるようになっていった。 何が気に入らなかったのかは知らない。 ただ、言ったことが変換して変
私の中学時代は今までに記事に書かせていただいたので見て頂けますと幸いです。 そんな中学校の奇妙な校則を今回紹介します。 私の学校は一言で「監獄」「独裁制」と思ってます。 1,髪型女子:・髪が肩にかかったら結ぶ。 ただし、ポニーテールはだめ→男子が欲情してしまうから ・前髪は目にかかったらだめ。 男子:・耳に髪がかかってはいけない。→聞こえにくくなるから。 ・坊主は禁止。スポーツ刈りは 共通:・髪の毛染めるのはもちろん禁止 ・長期休み明け
中学3年生 3年生になっても担任は変わらなかった。 3年生となると、人生を決める段階に入り。 成績に対していつもシビアに考えなくてはならなくなり。 最後の思い出を作ることに必死になり、そして勝ちにこだわる。 3年生ということで委員会や部活の代表になるようになる。 そして、この3年生激動の1年になった。 私は3年生になると共に、先生には気づかれないように行われるレベルであるいじめ。 理由もわかず不登校になったクラスメイト。 私はクラスの上っ面だけの関係性に嫌気が
【中学2年】クラス替えはしたが先生のメンツは大して変わらず。私の担任は前の担任よりもさらに怖いとされる女子テニス部の顧問である女性教師になった。 その教師は私が今まで出会った先生の中で一番「えこひいき」がひどい教師だった。 クラスの目立つ生徒(先生を慕ってるふりをする)と自分の部活の生徒しか興味を持たなかったし、それが成績にも影響した。 だから、クラスはいつも先生のご機嫌を伺いながら過ごしていた。 先生の機嫌の悪い日は機嫌を良くしようと必死に発言を増やしたり、他の授業で
HS Pの私の中学生時代です。 私の学校は校則が厳しく学業、部活動に盛んな公立学校だった。 学校の中でも私の学年は学校でも有名な程に怖い先生達の集まる学年で。 先生がローテーションのように学年を回るので卒業した学年がめちゃくちゃ荒れてた学年だったので怖い先生が揃えられてた。その学年が卒業したので私たちの学年に回ってきた。 そんな怖い先生に囲まれた3年間私にとっては暗黒の中学時代でした。 【1年生】私の小学校からは学年の生徒の8割を占める人数が入学していく。 だから、入
出ていけと言われた15年前。 戻ってここの家に住めと言われた15年後。 私たち家族は祖父の一言に振り回された。 祖父母の言葉にも振り回された。 それに従う家族。 父母に私は怒りしかなかった。 理不尽な引っ越しにより、新しく始まった新生活。 それは私たち家族に大きな変化を起こすヒビに過ぎなかった。 私たちは引っ越したことにより、それぞれ自分の部屋を持つようになり家族の会話はさらに少なくなっていった。 父との会話は思春期ということもあり0に近い状態、いや話した
祖父母の家で起きはじめた不調和音 それは、祖母がうつ状態が再発し深刻化していったそうだ。 その原因の一つは 【近所付き合い。】 30年近く同じ場所に住んでいたが、近所付き合いに限界がきたらしい。 井戸端会議で人の悪口やらなんやら喋ってばかりいる環境に限界がきたそうだ。 でも、それだけでは無いと思う祖父との関係にも嫌気が差してきていた。 そして認知症の症状が少し垣間見られていた。 祖父母は少しづつ遠くの田舎の持ち家に引っ越しの準備をはじめていた。 そして、中学
姉が中学に入り、私の家族の中で大きな事件が起こった。 それは、姉が入学して半年近く経った頃いじめの為に不登校になったのだ。 詳細はわからないが、姉自身自分の意見を言うタイプではなく人の顔色を伺って、なんでも受け入れてしまうタイプだった為言われるがままやりたくもないバレーボール部に入り、クラスでもそのリーダー的人物に振り回されていたのだと思う。 最初の頃は母もなぜ学校に行かないのか理由がわからなかった。 理由がわからないにもかかわらず、父が激怒したこともあった。 でも
HSPの素材や感触へのこだわりが強すぎるんです。私は特に手が敏感で、寒い季節なので手袋欲しくなるのですがどんな手袋でも手がちくちくして、モゾ痒くてつけれないのです。ネイルもできないのです。ネイルをすると爪が息できなくて無理なんです。
小学校時代はHSP(HSS型)の気質が強すぎて、クラスにも毎回毎回馴染めず、馴染むまで半年以上の時間がかかりました。 でも、ちゃんと馴染めたのかと言われればそうでもない。 ので、心を許して話せる友達も6年間で2.3人しかいないという強者でした。 上っ面の会話くらいならそこそこ話す程度でした。 そんな、私の学校での試練を紹介します。 ①ペア作って体育の時の『2人組になって』とか、 『チームは好きなように組んでね』とかお楽しみ会の出し物とかもう、全てが苦痛、、、、 毎
姉妹でもいつも怒られるのは姉の方だけだった。 「お姉ちゃんなんだから」という理由ではなかった。 「勉強しない」 「片付けをしない」 という理由だったと思う。 ただ、それだけで姉は父からめちゃくちゃ怒られていた。 怒鳴られ、泣かされ。 母と父のダブルパンチの日もあった。 その姿を見て怒られたくないという一心で親の顔色を伺い、姉がやってから自分もやるというずる賢く、容量の良い生活をするように心がけるようになった。 父はろくに家にもいないし、勉強も教えない。 仕