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「私たちはみんな、オバケかもしれない」と思ってみた猛暑日

4年ぶりに過ごす東京の6月が、暑過ぎる。昔の人は、「怪談」で暑さを凌いだらしいけれど、この暑さでは、話を聞くような集中力すらない。

週末とはいえ、ランチを作る元気もなくて、近所のレストランへ。子ども達は、ただでさえ平熱が高いのに、少し歩いただけで、ほっぺたが真っ赤になっていて、体温はおそらく40度ぐらいになっているんじゃないかと思う。

そんな真っ赤なほっぺたの娘(9)が、本を読みながら聞いてきた。
娘「デジャブってなんだっけ?」
私「初めてのはずなのに、経験したことがあるように感じる光景だよ」
娘「デジャブ、私はいつも見てる!」

さらに、
娘「死ぬ前に景色が見えるのもあるんでしょ。7分ぐらいだって」
私「走馬灯ね。7分とは知らなかったけど。結構、長いね」
娘「それ(走馬灯)も見る。もしかしたら、私、オバケだったりしてー。だったらどうする?」
私「怖いこと言うねー」笑
娘「怖くないよ。だってずっと前からいたよ?私」
私「確かに。オバケでも、かわいいからいいや」
そんな会話をした。

そういえば私も、昔は時々デジャブを見たけれど、最近は全く見なくなってしまった。その代わり、楽しい瞬間に「これは幻想ではないか」と思うことがある。いや、正確に言えば、わざと「幻想ではないか」と思ってみたりする。

そうすると、たとえば、友達と一緒に笑っていること、好きな人とケンカしていること、苦手な人の不可解な行動。
これら、見ていることも、経験していることも、本当は全部、長い長い夢であり、幻想であり、脳みその中の思考に過ぎず、ある瞬間に、スーッと消えてなくなるのではないか、という感覚になる。

そして、「死」ってそういうものかなと思う。
亡くなったあの人にとって、私は幻の一部になってしまっただろうし。
100年後には、友達も、好きな人も、苦手な人も、この世界には誰もいないし、笑いも、ケンカも、不可解な行動も、そんな光景は存在しない。

すべてが、あったようで、なかったようで。
そして、どこか別の世界で、ふとした瞬間に、誰かの脳裏に現れる。物体としてではなく、思考として。
それがデジャブかもしれない。物体がないとしたら、娘が言った「オバケ」は本当で、私たちみんな、オバケかもしれない。

そんなことを考えている、今日のティータイム。
別に、猛暑でおかしくなったわけではなく、いつもの妄想ごっこです。

本日のデザートはティラミス

妄想ヘキのある言葉プロデューサー、なまず美紀でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます✨💕