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蓮池に宇く

そういう予定ではなかったのですが、今日、モネの睡蓮に出会いました。
正確には、きっと今までもどこかで観てきたし、それなりにというのは失礼ですが、美しさに見惚れて「素晴らしい」と思ってきたことだったのでしょう。
でも、これまでは表面的に居合わせただけで、今まで何も捉えられずにいたのだと、そう思わざるおえない、そんな気づきを書き綴りたいと思います。

出かけた先・大山崎山荘美術館に、モネの睡蓮が存在していたことすら知らず、突如あらためてその絵画と向き合うことになり、
唐突に私の生命存在を揺さぶるように、その出会いは”瞬間の死”をもたらしました。

ペインティングとして描かれたキャンバスには時空の揺らぎがあり、その次元へと意識がいざなわれて、気がつけば”感情という泉の底”、みたいな景色を垣間見ていました。
不確かで曖昧な命のあり様を、はかなげに思ったり、力強く感じたり。
そのような熱を帯びた感性は、死への予兆によって支えられている。
だからこそ、生きているし、生きられる。生まれてきた以上、誰しも死を 内包しているからこそ、生きることへの安堵はありえる。

名画と対峙したあの衝撃を言葉にするならば、そういうことだったのかもしれません。
またこれから先、モネの睡蓮に出会った時、他の名画と対峙したとき、はたまた、名も知らぬアーティストの名もなき作品に、生命の本質を解き明かしてもらうことがあるのでしょう。

普遍性とひとしく理解される真理がもたらす感動。
これからも、言葉にしていけたらと思います。

**Photo:Heritance Ahungallaからのインド洋,Sri Lanka**

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