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【エッセイ】ねじれの位置にある言葉

 最も古い記憶の中の私は、桃色の光の閃きに向かって手を伸ばしている。だが、それには届かない。母が「こら、奪ったらダメだよ。これは他の人のモノだからね」と、私の手を掴んだからだ。必死に抵抗したが、まだ幼い私の手は、母の大きな手によって簡単に押さえつけられてしまった。私は自分の願望が叶わないことを感じ、声を上げて泣いた。
 母に「自分は奪おうとしたわけではない。ただ、少しだけ触れてみたかったのだ」と言いたかった。しかし、それを言語化出来るほど、当時の私は発達している年齢ではなかった。だから仕方がないのだが、母が私の感情を無視し、敵うことない力の強さで、私を押さえつけているようにも思えて、そのことも凄く悲しくて悔しかった。
 桃色の光の正体が何なのかわからなかったのは、古い記憶の為かもしれないし、目が涙で滲んでいたからかもしれない。そもそも幼い私が、その時それを「桃色の光」とだけ認識したのかもしれない。ただ、私が泣き止んだ後「ほら、買ってみたよ。これがももちゃんの分だよ」と母に渡されたものが、スパンコールのついた桃色の服を着た女の子のストラップだったから、おそらくそれか、もしくはそれに似た何かだったのだと思う。
 私はそのストラップを貰った時、ちっとも嬉しくなかった。胸がざわついた。苛々し「これじゃない」と思った。自分の感情を言語化出来なかった事で生じた母との距離を、そのストラップは悪意を持って、こちらに誇示しているように思えたからだ。
 幼少期に自分の気持ちが相手に伝わらなくて葛藤する経験は誰にでもあるだろうが、私はかなりこういう事が多かったように思う。
 誰と会話をしても心の距離は縮まる感じがしなかった。そもそも自分自身の感情と言葉が「ねじれの位置」の関係にあるような絶望感があった。現在でこそ、その感覚は少しだけ解消されたものの、中学生くらいまでは生きづらかった。だからきっと、言葉に執着し、本を好むようになった。
 あの頃触れたかった「桃色の光」にはもう触れる事は出来ないけれど、自分の心の最も深くて届きそうにない言葉を捕まえて、誰かと何かを分かち合えた時、幼い頃の自分も救っているような気持ちになる。言葉の選択を妥協して生きたくないという自分の執着は、きっと、あの原体験からきている。

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