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多様性を考える

珍しく目についただけでなく。
「ならば見せてもらおうか、貴様の感受性というものやらを」
どこかの大佐の声が聞こえたような気がしたので(ネタです

そういう部分に、幼い頃から「何で気づけるのか?」と言われる見え方をしてしまってたので。

投稿してみるのも、ありじゃなーい?

軽いようで、踏み込みすぎるかもしれませんが。


前提としての、言葉の意味

多様性、という言葉。

進化の多様性という形でも見聞きすると思います。
そして、進化となると、誰が何をしたわけでもなく、人間が生まれる以前から=環境破壊だなんだ以上に、進んで化けてた、だからこその進化。

そして、それが多岐に、様々に渡るからこその、多様性。

何が正しい、何が間違い。
何が良い、何が悪い。

どういう要因や要素があれど、個人が思う多様性なんて、突き破って、想像以上の違いを持つ人、物、ほか様々が存在する。

多様性を考えるということは

様々に違うという前提から
良し悪しという価値観を取り除いた上で

「見聞きして学ぶ」
ということでは?

個人としてはそう思います。


多様性vs価値観

―ラウンド1 Fight!―
解説「さーて、注目の試合が開始されました!
   おっと!これは早速と言わんばかりに、多様性選手!
   俺は何でも受け入れるぞポーズを取りかまえました!」

  「それに対して、挑戦者の価値観選手・・・・
   なんと!場外に飛び出したかと思えば観客を突き飛ばしたー!」

  「しかも、すかさず椅子を取り上げて折りたたみ!
   これは・・・!!」

  「でたー!前時代的価値観!プロレスなどでも見られていた
   観客席のパイプ椅子を凶器にするぞ攻撃だー!」

・・・・いや、書いてて、何やってんだ?とは思いますけどね。

多様性という言葉が、散見されだしてからというもの、この様な感じの論調を見かけることがあります。

「多様性という言葉が使われるのに、違いを受け入れない人たちが・・・」
下手すると、老害とか付けてる人も居るほどに。

いやー、「価値観の相違に対する否定」
それを、多様性という言葉とでやってしまうと、身も蓋もない。

揚げ足取りではなく。
取られるどころか歩いてるだけで、勝手にすっ転びますよ?

振り回してる価値観ばかりに意識が行ってて、足元に気がついていない。

そういう人を見かける機会が増えてる。

そういう意味では、多様性という言葉を扱い出すと、それこそ扱う人自身が「自分との戦いを始めるようなもの」
だと思います。

そういう意味では、多様性vs性格、とも言えるというか。

言葉を使うのは良いのですが。

言葉だって道具みたいなもので、その言葉の意味だけでなく。
語源や由来というような、生まれるに至る要素もあるものです。

それこそ、生まれた国が違う、様々な肌の色、そして人種があるという人間の多様性。
そこには、生まれた国、育った文化、生んだ親と様々に絡み合ったが故の、その人。

そして、その人だけに限らない違いがあるからこその、多様性

肌の色で差別をするのは、多様性への否定だから、止めましょう。
と、言いつつ。
自分たちが唱える差別に迎合しない人間は、差別主義者だ!

ツイッターってもう、写真や動画を上げなくても、バカッターになりさがったの?

少し厳しい意見ですが。

こういうのは、見えてないだけ、という部分もありますし、実際に時折みられるような”現象”です。

そもそも、時代での価値観って、その時代だからこそと言わんばかり。
様々な時代による、価値観の多様性というものを垣間見ることが出来る

そういう、ね。
多様性という言葉が生まれる元にも価値観がある。
というのは、勘違いしてたらいけないのでは?

そう思います。

そんなの今に合ってない!

いやその、合ってないも何も、貴方個人が中心ではないでしょう?
と、突き返されると思います。


難しいからこそ叫ばれる、多様性

こういう事を踏まえると。

「人間誰しも、違いを受け止めきるのは、なかなかに難しい」
そういう部分があると思います。

フェミニストだなんだにしても、実際に研究したり、海外に赴いて情報交換をしてるような人もいると思いますが。
日本では、寧ろ迷惑かけてるのでは?と言わんばかりに、男女平等ではなく、男性蔑視をフェミニズムだ、と。

これが正しい、間違いということではなく。

フェミニズムやフェミニストという思想や、人のあり方も、様々に違うし、目に見えて目立ってる人が全てではない

そう考えるのが、多様性を考えるということではないでしょうか?

なんというか、ここ数年は「流石に酷いのでは?」と言うほどに。

それこそ、ツイッターをやっててサブカルチャー方面に触れてるようなら、大なり小なりそういう機会を目にしてると思います。

それこそ「オタクはキモイ!」という、ね。
一時期はオタクというだけで、バッシングを受けてた。
そうされることで、周囲のガス抜きが出来てた。

でも、サブカルチャーが受け入れられだしただけでなく、ミリタリー、鉄道、航空機、艦船と。
様々に「オタク」として、蔑まれてた人たちが、自分の趣味を公に出しても良いのだ、好きなものは好き、そう言って良いんだな。

良い変化を迎えたわけです。

ですが、どうしても否定的に捉えがちの人は居ます
そういう人たちは、途端に少数派に追い込まれ「愚痴をこぼすことすら悪いこと」と

多数派と少数派が入れ替わることでの、仕返しをされるハメになってからも、結構時が経ってます

そこで、こう、やっぱりというか。

禍根が残っただけでなく、燻ぶらせてた人たちが居て
今また逆転になりうる要素が出てきたので、その要素を”悪用すると言わんばかり”に非難材料にしている。

そういう時期だと思います。

まあ、共通して言えるのは。

やっぱり、違うものを受け入れるというのは。
感情があるが故に、どうにもまだ難しい事なのである。

ということかなぁ、と思います。


見えてくる理由、そこにある”多数派”

結局、多様性という言葉が見聞きされるようになったのも

「多様性とはこういう意味、という、多数派を構築する」

そうやって、多数派を構成することで、数の暴力でなし崩しにする。

なぜ、そういう言葉が取り上げられるようになったのか?

という見方から、様々に追いかけていくと、どうしても”負と言える要素”。
悪い意味での、意図や狙いというものが、見え隠れしてくる。

そもそも、既に”個人差”だったり、”個性”という言葉もありもすれば、使われることもあります。

そこにイチイチ”多様性という言葉を足す必要ってありますか?”
と。

多様性とセットと言わんばかりに、
「皆違って皆良い」
という表現もついてることがあります。

今回は、#多様性を考える、が主目的なので、簡潔に行きますが。

「幼い頃から、感受性が親の想像すら超えてたので、個人が見せる違いは叩かれるどころか、無いものだったり、個人への否定をされるばかりでした。」

ええ、そうなんです。
幼い頃から=今になっても変わらず。

昭和?平成?令和?
「はい!そんなのかんけーねぇ!、そんなのかんけーねぇ!」
もう古くなったでしょうが、それこそ、オッパッピー!とか叫びたくなるほどに、ね。

「貴方の見せる違いは、多くの人が見せないから。」
何が悲しくて、精神科通院続ける中で、違うことを理由に否定をうけるのか?
そういうのをまだまだ経験してしまうのが、日常ですの。

個性とか、個人差とすらも扱われない。

突き抜けてしまってる違いだからなのか?
多くの人どころか、親ほどに年齢が離れた人、子供という程に年齢が離れた人、双方から

「貴方の違いはありえません」

そういう扱いを、今でもされる個人なので。

”本気で多様性という言葉を、考えるつもりあるかい?”

そういう問題提起はしておきたい、と思います。

大事なことなのでもう一度。

「本気で考える、そういう覚悟がおありか?」

軽い気持ちで、言葉を流行らせて、扱うなんてのは。
昭和の時代、そのものと変わらないので。

いくら言い訳した所で。

辛い経験した人からは、本気度たりねーだろ?って突っ込まれかねないですよ。


あとがき

最後にもれてしまいましたが。

正直、多様性と言う言葉を使った所で結局は「違いに対する理解、受け入れの強要や押し付け」というのは、否めないです。

そもそも、人間誰しも違うのが当たり前。

それこそ、個人としては、一瞬の感情の変化、それによる表情や仕草、口調、語調、声色の微妙な変化を受け取りかねない。

そういう、見聞きする。
目や耳が感じ取ると言う部分が過ぎてるタイプです。

かといって、それを”正直に伝えても”
相手は図星とか、隠したはずの本音の露呈になるケースもあるので、怒りもすれば否定もしてくる。

それが幼い頃から、変わらない日常なので。

それこそ、違いに気づくけど、敢えて言わないという選択。
それをすることで、生活する、人生を送ると言う感じです。

善悪二元論ではないですが、二元ってある種の二つの極地です。
極めた先なので、善も悪も必要以上に唱えるなら、間違っていない証明を自己で行えなければ、躓いてしまうものです。

それを言葉で出来ないから、と。
唱えられるのが、今回挙げた”多様性”という、ね。

その時々での、主流と言われるような言葉、価値観なんですよ。

だからこそ、オタクと言う言葉も、キモイ、暗い、ダサいの象徴みたいな時代も過去にはあったわけなんです。

オタクと言った所で、その人の全てが決まるわけでもなければ、人としての悪さの凝縮という言葉でもない。
でも、世の中の多くの人=多数派が、オタクはキモイというから。
「オタクとも言える、お前はキモイんだ」

ええ、イジメを受けてました。

ですが。
そういうのも違いであり、それはその人が持つもの。
良い悪い関係なく、どうしても私に言いたいだけだから、言ってるし、腹は立つけど言わせておけばいいよ。

気にもしないし、無関心でさらっと流してました。
また、多様性として受け入れきれないのなら、何はともあれ「その人だからこそ」として、無いものとして流すというやり方も、ね?

多様性を考える、そして扱うという事の、一つの手段だと。
個人としては、考えます。

まぁ、厳密にいうなら、オタクって「好きこそものの上手なれ」の一端で、好きだからこそ、追いかけるし、知ろう触れようとするし、だからこそ妙に詳しくなるだけなんですよ。

更には、個人の趣味、なんですよね。
それに、キモイだなんだと文句を付けて、ガス抜きをする。
そういう狙いは無かったものの、体よく扱われることになった言葉だと思います。

今は違いますけどね。

そういう意味では、#多様性を考える、だけではなく、何故その言葉が叫ばれるのか?を考えてみたり。
他に似たような言葉は無いか?と探して触れてみたり。

そして想像してみる。

考えるってそういうことでは無いでしょうか。



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