取材で出会ったご夫妻が素敵すぎて、「個」の在り方について頭抱えてる
先日取材したご夫妻が最高すぎた……という話をつらつらとしてみたい。
取材は、とあるカフェにて。
店内の内装はすべておふたりでDIYされていて、まるで映画の中に迷い込んだみたいに、世界観が完璧で、居心地が良くて、ときめいてしまって。
旦那様と奥様の好きなものを掛け合わせて、本当に楽しんで仕事をなさっているんだなって、お話を聞きながら存分に伝わってきた。
取材の中で、印象に残るお話があって。
そのようなことをお話しされていた。
色褪せていく美しさ。
心を込めて作り上げた世界が、時間を重ねていくごとに少しずつ姿を変えていく、味わいを深めていく楽しさ。
そしてそれを、一緒の温度、視線で楽しんでくれるパートナーが隣にいること。
最高だなぁ……
なんでこんなにも、おふたりの姿に心惹かれるのだろう。
そこには私の内面や、社会に出てからずっと直面してきているソワソワした感覚も関係しているような気がしていて。
大学を卒業してから、ずっとずっと誰かと自分を比べては一喜一憂している気がするの。
いや、気がするのではなく、事実そうなんだよな。
大学までの人間関係を言葉にしてみるとすれば、みんなが同じスタートラインにいて、そこからそれぞれの専門分野・関心ごとに足を踏み出して。
1つの幹からどんどん枝分かれして、それぞれの花を咲かせている感じ。
まったく違う種類の花だから、そこに優劣もないし、それぞれが花を咲かせるために全力を費やしている。
その姿をそれぞれに肯定しあえて、刺激をもらってまた自分の花を咲かすために頑張る。
そんなイメージ。
でも社会に出てからは、そうじゃなくなった。
似たような花を咲かせている人がいたら、どっちの方が大きいのか、色鮮やかなのか、香りが高いのか。
いろんな観点で比較しては、落ち込んで、負けを認めないように必死に取り繕って、誰もみていないところでまた頭を抱えて。
理屈では、こう思う。
「個」の在り方って、どんなものでもいいのだと。
インターネットを通じていろんな個人が表出しやすくなった今の時代は、大多数とは違った姿がなんだか優れて見えるし、目立つことに対して今まで以上に眩い感情を抱いてしまうけど。
実際は、どんな私であってもいいし、どんな私であってもまずは私自身が尊重できなければいけないって。
あのご夫婦がなんであんなに素敵に見えたかっていうと。
自分たちの「好き」を誰のためでもなく、自分たちのために突き抜けているからじゃないかなって。
そしてそれが結果的に、自らの心をしっかりと満たしている。
それが本当に幸せそうで、あんなふうに生きたいって思ったんだろうなぁ。
さて、私の「個」って、なんだろう?
今、私は「個」を、というか私の「根っこ」を、大切なものを、隠して生きている。
人の目が気になるから。
自分がどう思われるかもそうだけど、それ以外にも、守りたいものがあるから。
それでもいいと思う。
なんでかって、「個」というものは、人のためにあるものではないから。
でも、隠している今の状態が、自分にとって心地いいものじゃないなら。
それは「在り方」を考え直さないといけないのかも。
私って、こんな人なの。
こんな過去があったから、私がいるの。
そう言える覚悟が決まるまで、もう少し心の中で「個」をあたためよう。
「個」が出せなくても、「好き」なら言える。
私はこうして、語るのが好きだし、言葉を紡ぐのが好きだ。
だからこうして、とりとめもなく書いている。
今日もオチはない。
でも、それでよし。
素敵な出会いがあったって、そんな話でした。
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