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そのあとは、パンフレットでランチを。

たまには、自分の好きなことについてひたすら話してみる。

何が好きかって、映画のこと。
映画という娯楽様式そのものや、それを楽しむ映画館という環境が大好きだし、映画を観ている最中や観終わった後に喜怒哀楽を揺さぶられている自分の状態も、心地良くて病みつきになる。

そして、こういう私と同じくらいにその映画作品を観たいと思っている相手がいたとして、その人と観終えた後に交わす感想戦は最高の第2ラウンドでもある。

作品の好みにはかなり偏りがある。映画の楽しさを知るきっかけとなった作品が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「スター・ウォーズ」だった私は、その後もいわゆる「ハリウッド系」と呼ばれるカテゴリを中心に、外国映画だけを意識的に選んできた。数を誇るつもりは毛頭ないけれど、示すべき経験値があるとするならば、20代は平均で2週に1本、30代以降は月1本として、今までに600本超。これに地上波放送やレンタル、ネットを足して、ざっと計800本くらいだろうか。全て外国映画。あとは、紅の豚までのジブリ作品だけだ。

こうしていま改めて数を認識して自分で驚くのは、映画を本格的に見始めた大学時代から今に至るまで、作品の好みや受け止め方に良くも悪しくもほとんど変化がないことだ。初見時に面白かったものは何度観てもいまだに面白いし、初めは面白さや価値が分からなかった作品をしばらくしてから見直すという稀なケースでも、やっぱり評価は上がらない。20代の頃に親から「もう少し年を取ると良さが分かるよ」と言われた作品を見直すこともあるが、それで評価が上がった作品にはまだあまり出会えていない。自分には成長という概念がないのかと思わなくもないけれど、良くも悪くも感覚が変わらず保持できている「能力」だと思うことにしている。

特に高い自己評価を与えた作品は必ずBlu-rayを買って、それを棚一面に並べた光景を眺めて悦に入るのも、自分なりの満足法だ。いまやネットでいつでも映画が観られる時代だけれど、ディスクという、形あるモノとして実在させることが、好きな作品に対する自分なり敬意というか、感謝の念に近い。

さて、映画(やテレビドラマなどの映像作品)について誰かと語り合う時にしばしば困るのが、原作の存在を持ち出されることだ。私はあくまで、映像作品(以下、その代表として「映画」と表記)は原作の有る無しとは完全に無関係に、それ自体で楽しむべきものと思っているので、映画の話題をしているときに「原作はね」と切り出されると、「やれやれ・・・」と拒否権を発動し、頭をシャットダウンさせてしまう。映画のベースとなる文字情報をここではあまねく原作と呼ぶとすれば、どんな映画にも大なり小なり脚本という原作があるわけで、それが監督のタクトによって映像化されただけのこと。つまり、原作を読んだ人の数だけその脳内にはそれぞれ似て非なる映像が作られるはずだ。映画という形にせず脳内の想像だけで組み上げられた映像はとくに、自分の都合の良いように究極的に理想化されるから、他人が作った映像に違和感を持つのは当然なのだ。それを、原作(から自分の脳内で勝手に映像化したもの)と比較した見方をすることには不毛さしか感じないのである。「第2ラウンド」がそんな流れになってしまったら、私はさっき売店で買ったパンフレットを広げて、うつむき熟読するだけ。注文した珈琲をときどきすすりながら、「この人とはもう、ないな」と思うだけだ。

ついでの拒否権を発動するならば、3Dや4DXも、要らない。私の中でそれは、アトラクションとして別カテゴリの存在だ。映画とは昔ながらの2Dで、ただ後ろからスクリーンに向かって投影し、自分を囲むスピーカーから音が出るもの。そういうシンプルな作りで十分。ガチャガチャとしたオプション的な技術でごまかすなとさえ思ってしまう。古い人間ですかね。

平日に休みを取って朝イチの映画館へ行き、観終えたら必ずパンフレットを買い、ランチを食べに銀座の2丁目あたりへ行って、お寿司を食べつつ映画の感想戦をし、腹ごなしに5丁目あたりまで歩いたら、レンガ造りの喫茶店に入ってタルトフロマージュと珈琲を頼み、パンフを開きながら映画話の「第3ラウンド」に華を咲かせ、さてそろそろ、と数寄屋橋の方へ戻りながらパンを買って帰る暮らしが早く戻ってくることを祈って、今日は筆を置きます。

有楽町で、会いましょう。

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