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「疑り深い」は探求心?猜疑心?

基本的に気になるポイントとして
本当にそうなのか?
何でそうなるのか?
そもそもやる意味あるのか?
目的と手段が入れ替わってないか?
やる必要あるのか?
私にあっているのか?・・・etc

私の中ではこのように考えることは探求心の分類なんだけど、人によっては否定的な猜疑心と捉えられて、不快な思いをされやすい部分だったかも?
一旦、否定的な疑いと認識されると説明が一苦労なところでもあるし、
言葉や文字だけだとニュアンスが変に捉えられることも多いよね~。

それもあって今で人と深く関わるのはめんどくさい!と思っていた。


私の中での「疑い」は違和感を覚えた時などに、現状の改善や改革に必要な「学びの的」を絞るポイントであり原動力を与えてくれるもの

違和感やモヤモヤを感じた時、今までのあたりまえ「自分の価値観や物事の仕組み」の中に何があるのか??
あたりまえだと思っていた自分の価値観を一旦疑ってみて、
これは本当に私が望んでいたことなのか??
一度立ち止まって考える時期も時には必要だと思っている。

「どうせ無理」と思っていたことも本当に?と仮説検証を繰り返してみて、
いつからか人と深く関わるのはめんどくさいものと思っていたけど・・・。
あれ?人が好きだからこそ傷つけたくなくて、めんどくさいという言葉を自分に言い聞かせて敬遠していた??と学びを通して変化した。

最近は、学んだ知識を人と対話をすることで知識の深堀りにもなり、自分では見落としてしまった部分に光を当てる作業が楽しい。
対話を通して関わる人の新たな一面や可能性、視点に触れる度にワクワクするし、その人をもっと知りたいという欲求も出てくる。

対話をする際の別視点からの問いかけの力は、とても心地がよいものであると共に、探求心と猜疑心のように言葉一つで関係性を広げもするし簡単に狭めることもできるなとも思う。

相手に放った言葉は戻すことはできないからこそ、お互いの言葉のイメージのすり合わせも大切。
その際に、カードなどを使いながら認識を視覚的に合わせるなど、お互いの歩み寄りの力が関係性をより良くしていくのだろう・・・。

今回の疑り深いの意味も、他の人とある動画を何気なくシェアした際に
どういう意味でその動画を受け取っているかを問われて意味をお互いに伝え合った結果の気づき。

あぁー!!そこよく勘違いされてたわ~!と思ったよね。

動画だから周りの雰囲気とかで伝わるだろうとついつい思いがち、
だけど補足的に言葉を足す作業も時には必要だなと思った出来事でした。

今回のことを通して、自分自身の言葉の曖昧さを指摘してくれる人って改めて大切だとしみじみ思う。

大人になると良さげなあたりまえに合わせることを優先して、お互いに指摘しないことが美徳のような雰囲気がある中で、お互いに考えを伝え合える関係は自分の価値観に気づくきっかけになる。
そんな人とこれからも繋がり対話を続け学び続けたいと思う。

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