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地域劇団を作る試み

これまで一度も市民の劇団が存在しなかった富山県氷見市で、地域劇団の活動の立ち上げを試みている。
週に一回の集まりを始めているものの、メンバーは最初に集まった数名で固定しており、発声の講座なども試みたものの「発声には興味があるけど演劇は無理」と、そこからいよいよ続く演劇の基礎練体験の方には参加してもらえない有様で、地域劇団にどうやって人を引き込むのか、あと、噂を聞かなくはない、「身に覚えのある人」に、隠れていないで一緒にやってみないかという雰囲気をしっかり出せないのかと考えている。

芸術活動に身を投じやすい人間のパターンとしては、以下だろうか。
・創作の楽しさを知っている。
楽しさを知っている人には、楽しいことするからおいでよ。というのは言いやすい。ただ実は、楽しさを知っていても、それだけだとやめてしまう場合がある。
・何らかの美的体験がある。
美的体験というと、結構大げさだけど、いろんなことで、不意に美しいものに触れて、なんかいいなぁと思うぐらいのことでいい。ただ、どうやって作る側にいってみられるかは、作る体験ができる場所が必要なので、演劇を作ってみる作業が、君が得た体験から、なんとなく続いている衝動めいたものにマッチするかもよ。という提案をこちらからすることで、演劇に引き込める可能性はある。

この二点を確認して、更に問題にしたいのが、「作ることと美的感覚を更新することがしっかり結びついている創作ができているか」ということ。
作る作業の中で、できないことができる様になるのはちょっとしんどいのだけれど、そこを越えた時の、作品に対しての自分の手応えや他からの評価、また、普段のよそからの刺激で、とにかく自分たちの美的感覚を更新し続けられるサイクルに入ること。これが結構難しい。
隠れている身に覚えのある人には、ここまでを意識してプロセスを作ってやってますというのが見える様にできていたら、少しは安心してもらえると思う。

そう考えたら、創作の楽しさを知らない人には、「美的体験」がしてもらえる作品づくりをするより他はないのではあるまいか。客としてすら来てもらえないなら、例えば氷見市民には、獅子舞という地域芸能との心の距離という、ほぼ全市民で何らか語り合える普遍的故に健全な切り口もあるので、この線を越えて人を寄せることに心を砕く必要もないないのかもしれない。

田舎では刺激が少ないけれど、都会ではもう暮らしていくだけで何もできないくらい日本は衰退している。芸術活動なんてのは、田舎でも都会でも「お芸術ですか」みたいな扱いなのは同じだから、暮らせる方でやってみるというのはどうだろうか。
そんなわけで、田舎の氷見市で芸術活動に身を投じてどうなるというのは、おそらく過去の雰囲気から聞こえる意味のない音のようなものなので、やってみても損はないと、そう伝わる様に、実際に演劇を作ってみればいいわけだな。

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