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「追試制度」の矛盾

目次
1 【結論】追試制度は要らない
2 【前提】履修主義vs修得主義
3 【論点①】日本の高校は修得主義と言えるのか?
4 【論点②】修得すべきものとは?
5 【論点③】修得すべきものは試験(のみ)で測れるのか?
6 【論点④】追試は何を目的としているのか?
7 【提言】追試の代わりに1on1(面談)を


1 【結論】追試制度は要らない
今年もこの時期がやってきました。そう、「追試」の時期です。
読者の皆様も学生時代、「追試」に頭を悩ませたご経験が一度はあるのではないでしょうか。
私も決して優秀とは言えなかった学生時代、「このままだと追試だぞ」とか「追試に合格しないと卒業できないよ」などなど、激励(?)の言葉に戦々恐々としながら、徹夜して勉強していたことを鮮明に覚えています。

しかし、結論から申し上げれば、私は「追試」という制度は現在の教育制度や理念と矛盾したものであり、不要なものだと考えています。
以下に主要な論点をいくつか切り分けて、一つずつ考えたいと思います。

なお、このような教育をめぐる議論では「一億総評論家」などと言われるように、感情的な議論や自身の経験という「n=1」の議論が多く、またかろうじてそれらを脱していても論点が入り混じっていることが非常に多く見受けられます。
そこで、本稿では論点を以下の4つに切り分けて考察していきます。
(教育などにおいて「問題を切り分ける」ことの重要性については以下拙稿をご参照ください。)
※参考:https://note.com/very50/n/n5ef47326a712


2 【前提】履修主義vs修得主義
私がそのように考える理由の1つ目は、「我が国の教育制度は現実的に、多くが履修主義に基づいているから」です。
議論に先立ち、履修主義と、その対となる概念である修得主義について簡単に定義を確認します。
まず、履修主義とは「当初は成績の評価・評定と深く関係付けられていた用語で,児童生徒は,所定の教育課程をその能力に応じて,一定年限の間,履修すればよいのであって,特に最終の合格を決める試験もなく,所定の目標を満足させるだけの履修の成果を上げることは求められていないとする考え方」であるとされています。(太字は筆者による)
(出典:https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05082301/005.htm)

それに対して、修得主義とは「所定の教育課程を履修して,目標に関し,一定の成果を上げて単位を修得することが必要とする考え方」であるとされます。
(出典:同上)(太字は筆者による)

そして、我が国の場合、小中学校は義務教育であることから履修主義、高等学校などは単位制であることから修得主義の原理に基づくものであるとされています。
しかし、現状の高等学校ははたして「修得主義」であるといえるのでしょうか?
次項で考察してみましょう。


3 【論点①】日本の高校は修得主義と言えるのか?
まず、本当に修得主義であるならば、先の定義にある通り「一定の成果を上げ」れば「単位が修得できる」はずです。
ですが、目標を達していたら(時間の制限なく、例えば早期にでも)単位がもらえるようにはなっていません。
皆一律に4月に学習が始まり、3月になると単位がもらえるのです。
飛び級や早期卒業などの仕組みもほとんどありません。

「1年間そこにいたことを持って履修したとみなす」のがわが国の「現状」なのであり、これは修得主義とはおよそ言えないと私は思います。


4 【論点②】修得すべきものとは?
そもそも、ここで目指される修得すべきものとは何なのでしょうか?
その基準は誰が決めるのでしょうか?

「基準」として最初に思い浮かぶのは学習指導要領です。
たしかに、学習指導要領は「学ぶべき内容の最低基準」であるとされています。よって、修得すべき内容(コンテンツ)自体はここでわかります。
しかし、それらの内容を「どこまで理解すれば」修得と言えるのか、その基準は示されていません。
また、新学習指導要領では「コンテンツベースからコンピテンシーベースへ」=「何を学ぶかからどのような力を養うかへ」の転換が謳われていますが、「どのような力を養うのか」「それはどの程度のレベルを持って修得したと言えるのか」のいずれも不明確です。
いわゆる「各教科の見方・考え方」がそれにあたりますが、その詳細は不明確だと、専門家からも指摘され続けています。

このような状態で、「修得すべきもの」が明らかになっているとはおよそ言い難いと考えます。


5 【論点③】修得すべきものは試験(のみ)で測れるのか?
前項で見た通り、そもそも修得すべき内容が不明確で、どのような力を付ければ良いのかも明示されていない状態ではありますが、それでも「一応は書いてあるじゃないか」「それらの見方・考え方を現場で細分化・精緻化すれば良い」という声も聞こえてきそうです。
そこで、仮に100歩譲って指導要領を基準とできるとした場合、その「修得すべきもの」は「追試というペーパーテスト(のみ)」で測れるのか、考えたいと思います。

既に述べた通り、新しい指導要領では「何を学ぶか」という内容重視から「どのような力を身につけるか」という資質・能力重視への転換が強く図られています。
それに伴い、評価のあり方自体も転換が求められています
例えば、平成28年の中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」には以下のように記されています。

資質・能力のバランスのとれた学習評価を行っていくためには、指導と評価の一体化を図る中で、論述やレポートの作成、発表、グループでの話合い、作品の制作等といった多様な活動に取り組ませるパフォーマンス評価などを取り入れ、ペーパーテストの結果にとどまらない、多面的・多角的な評価を行っていくことが必要である。(太字は筆者による)
(出典:https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/1380902_0.pdf)

にも関わらず、成績不良者を「追試」というペーパーテストのみによって評価し、進級させるか原級留置(いわゆる「留年」)すべきかを判断することは、新指導要領の理念とも矛盾するものだと私は考えます。


6 【論点④】追試は何を目的としているのか?
最後に、「追試」とはそもそも何を目的とするものなのか、考えたいと思います。
ここでは追試の目的を「今行われている追試の目的=現状」と「(仮に追試を行うとしたら)本来は何が目的なのか=理想」に切り分けて考察します。

まず、現状追試を行っている学校、先生方は何を目的としているのでしょうか?
私の勤務校にも追試・再試を行っている先生方がいらっしゃいますが、彼らをみていると以下の2つの目的があるように思われます。

修得すべき内容を修得できたかどうか評価・確認する
「passしないと進級できない」という危機感を持たせることで、真剣に学習させる

①の場合、それがペーパーテストであることの妥当性が揺らいでいることは前項で見た通りです。

②の場合、果たして追試のために生徒は「学習」するのでしょうか?私の知る限り、追試の対象となった生徒たちは「追試に出そうな内容」を「徹夜で丸暗記」して臨んでいるケースが大半です。
ちなみに、私が最初に勤務していたある私立学校では、事前に教員が追試の問題を生徒に渡し、答えを暗記させてくるということまで多発していました。
ここまでくるともはやジョークとしても笑えませんが、それほどのケースは稀だとしても(そう信じます)、「試験があるから勉強する」というような状態で生徒たちが真に「学びに向かう主体性」を養い、学び続けることができるとは、私には到底思えません。

そして「仮に追試を行うとしてその目的は何か」ですが、先の答申によれば学習評価の在り方について、

①児童生徒の学習改善につながるものにしていくこと、
②教師の指導改善につながるものにしていくこと、
③これまで慣行として行われてきたことでも、必要性・妥当性が認められないものは見直していくこと

を基本とする

とされています。
これらの3項目から照らして、「これまでの慣行に囚われず、生徒の学習改善と教師の指導改善につながる評価」のあり方を考えるべきです。
少なくとも、「成績が悪いから追試を受けされる」という慣例主義でその場しのぎな対応はやめるべきだと、私は考えます。


7 【提言】追試の代わりに1on1(面談)を
ここまでの議論をまとめます。


多くを履修主義の原理に拠って立つ現在の学校において、修得すべきものもその程度も明確であるとは言えず、指導要領に示されている「最低基準」として扱うべき内容や各教科で養うべき資質・能力(見方・考え方)を基準にするとしてもペーパーテストのみで評価することは妥当とは言い難い。そして、そもそも追試の目的から照らして合目的的手段であるとは言えない。

ということになります。

では、追試を廃止し、フリーパスで全員を進級させればよいのでしょうか?
もちろんそうではありません。
マクロ的には、修得主義を学校の中でどのように「仕組み化」していくのか、教育委員会や各学校において議論していくべきでしょう。
その上で、ミクロ的に、つまり私たち「現場の教員」や保護者の皆様、教育に関わる方々への提案は、以下の2つです。

①無思考に「現行制度」を受け入れるのも、「今までやってきたから」やるのも、もうやめませんか?
「追試」は何のためにあるのか、その目的に対して手段は合理的と言えるのか、考える必要があります。

②成績が悪い生徒がいるのなら、いきなり試験を課して「無理やり」勉強させるのではなく、まずは面談(1on1)しませんか?
※学校現場における1on1の重要性については以下拙稿をご参照ください。
参考:https://note.com/nakayamannzo/n/n7ea39319352e

彼らの成績が悪いのは、はたして本当に「勉強していないから」でしょうか?
そうだとしたら、「試験を追加で課す」ことで彼らは真に「勉強する」ようになるのでしょうか?

もし成績不良者におけるイシューが「点数が著しく低いこと」なのだとしたら、点数が高くなるまで試験を課せば問題は解決したと言えるでしょう。
しかし、本当のイシューは「その生徒の学習がうまくいっていないこと」自体であるはずです。
であるならば、最優先にすべきことは、さらに試験を課すことでも「勉強しろ!」と説教することでもなく、「なぜ学習に向かえていないのか」「ブレーキとして働いている要素は何か」「学習方略に問題はないか」を共に考え、道筋を展望することであるはずです。

実際、私はいわゆる「赤点」の生徒に対して追試・再試は一切行っておらず、その代わり1on1をしています。
そして、ここまでに学んだ内容を自分のものにするためにはどうしたらいいか、を生徒に問いかけ、自分自身で考えさせています。
その上で、課題も提出期限も自分で設定させています。

私は「追試」という制度を悪者にしたいのでも、追試を行っている先生方を否定したいのでもありません。
ただ、追試を行っている先生方や学校にも、目的や理念があったはずです。
それが何であるのか、立ち止まってよく考え、そのためにベストでないとしても「ベター」な方法は何なのか、共に考えませんか?

教育には「これをやればうまくいく」というような「ベストな選択肢」は存在しません。
だからこそ、過去を否定することには生産性がないと思っています。

本稿が「追試」という一つの問題を切り口に、「より良い教育のあり方」を考え、周りの方々と議論して頂く契機になれば幸いです。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

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