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Into The Nature〜自然の扉を開けた2020年〜

2020年は自然との出会いだったーーそういうと、なんだかおかしな気持ちにもなる。人間も自然の一部なはずだし、自然は日常のそこら中にある。でも、自分の身体感覚として、「自然なるもの」と少しでも通じあえたという感覚に出会ったのは、今年が初めてだった気がする。

今回は「2020年の出会い」というテーマで、今年出会った自然に想いを馳せながら、振り返ってみようと思う。コロナ前からフルリモートで自宅に引きこもって仕事をする暮らしをしていた人間が、環境保全の活動に携わり、樵の修行を始めるようになる"うねり"は、夏ごろから始まった。

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自然の扉が開いた瞬間

今年の前半は、上記のnoteで書いたように、何か世の中にとっていいことをやりたいと思い立つも、様々なトレードオフに縛られて「これが本当にいいことなのだろうか・・・」と悩む日々。

そんな折にSustainabilityではなく、Regenerationという考え方があることを知る。タイミングよく開催されるという"Journey of Regeneration"という14週間にわたるオンラインジャーニーに、何かのきっかけになるのではと思い立ち、締め切り数分前にバタバタと申し込んだ。振り返ってみれば、申し込んだ自分、英断である。

この旅路で知識として学んで心に残っていることは山ほどあるが、個人的に今でも思い返すとほくそ笑んでしまいそうなことがある。それは、切り株との出会いだった。

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ジャーニーの中には"Sensing Session"という自然の中に身をおいて、自分のリズムと自然のリズムを合わせていく時間がある。僕は近所のごく普通の小さな公園に行き、「裸足になった方がいいよ」というアドバイスに従い、裸足になった。そのまま園内にあった座りやすそうな切り株に腰をおろし、足を地上に出ている根っこにそっとつける。すると

「えっ、生きてる」

足が根っこに触れた瞬間、たしかにそう感じたのだ。言語化すると、何をいっているんだコイツは、と思うかもしれないが、実際そう感じてしまったのだからしょうがない。

一見すると綺麗に切り取られ残された切り株は、「死んでいる」と思うだろう。そもそも、木が生きているとか死んでいるとか、意識したこともましてや感知したこともなかった。でも、素足を通じて感じた「生きている」という感覚は、穏やかに、でもたしかに僕の全身を駆け巡ったのだった。

後日、薦められて読んだ「樹木たちの知られざる生活」という本には、切り株のまわりの木が根っこを通じて栄養を譲り生き残ることがあるという話が載っていた。僕が座った切り株がその事例に当てはまるかはわからないけれど、なんとなく、「ああっ、あの切り株はやっぱり生きてたんだなあ」と思ったのである。

そんな切り株との出会い以来、自然に身を置く時間が増えていった。呼吸を意識するワークショップやヨガの時間があったこともあり、呼吸に敏感になったせいか、家で集中してデスクワークをしていると呼吸が浅くなり息苦しく感じるようになった。

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このままだと何かがダメになると身体のアラートを察知し、パソコンを持って自転車に飛び乗り、自然のあるオープンエアーな場所へ。電池残量に恐々としながら、外で仕事をする時間も増えた。もっと自然と関わる時間を増やしたいーーそんなことを考えるようになるのも時間の問題だった。

豊かな自然を受け継いでいくために

折しもそんな旅路と同時期に、札幌の環境林の保全活動をされている方たちと出会う機会があった。僕が住んでいるエリアに、市が保有している環境保全のための森林が65ha(東京ドーム約14個分)ほどあり、そこで活動されている人たちを拝見し、活動に興味をもったのだった。

彼らはボランティアとして、森林の生態調査から植林、伐採、作業道づくり、生態系の保全活動、子どもたちへの環境教育などをされている。まずは見学をということで、みなさんが何十年とかけて手入れをしてきた森を案内していただけた。

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川のはじまりの場所、タヌキの貯め糞の習性、笹の背丈と積雪の関係、地中で大半を過ごす蝉の一生。

どれも、何か特別なことではないような気がするのに、一つひとつ眼前にリアルにある世界の見方を教えてもらい、心がとてもワクワクした。自然の解像度が少し上がるたびに、そこにある自然と対話できているような心持ちになる。受け入れられた、と言ってしまうと恐れ多いが、そんな感覚にもなったのだ。

そして、そんな豊かな自然を守り、育み、次の世代に受け継いでいこうとされている目の前にいらっしゃる方々の存在が嬉しかった。自分も、未来に向けて、今自分が感じた豊かさを引き継いでいきたい。そんな想いを強くした。

一方で、現場活動によくいらっしゃる方々の平均年齢は70歳を超えている。僕がみなさんの前で自己紹介をすると、「学生か?」「現役(=年金世代ではない)がきたぞ」とワイワイ盛り上がる。みんな元気だけど、次世代の担い手がいないのは明白だった。そんなわかりやすい危機感に、想いを後押しされた面もある。

そんな想いを募らせている間に出くわしたのが、2週間にわたる樵(木こり)の修行だった。まずはやってみようと思い、旭川エリア(当麻町、比布町)にて刈り払い機、チェーンソー、ユンボなどの安全講習を一通り受ける。その後、作業道のつくり方や伐採、玉切り、はては山でのキャンプ、自然との楽しみ方など、多くのことを教えてもらった。

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その後、様々なご縁をいただき、道東の十勝エリア(帯広、池田町、足寄町)、札幌近郊エリア(厚真町、千歳、恵庭)など、道内のいろんな地域の方に現場を含めてお話を聞く機会をいただけた。

どのエリアで具体的に何をするかはまだ決まってないことが多いけど、ご縁があった地域で、自分ができる貢献を果たせるよう、頑張ります。

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生態学的思考にみた一筋の希望

自然を目の前にすると、自分の無知をまざまざと知らされる。リラックス目的であれば、自然の中でゆったり過ごせばよいが、自然を育み、受け継いでいくには圧倒的に知識もスキルも足りない。でも何から手をつければいいのだろう。

そんな悶々とした想いを抱えつつ、気になった本を手当たり次第読んでいった結果、多くの事柄は広く「生態学(エコロジー)」という学問の一部なのではと最近感じるようになった。このnoteを読んでいる人は、「何を今さら・・・」と思うかもしれない。僕も同意である。気づくのが遅いわw 

エコロジーなんて言葉としては知っていたはずなのに、それが一体どういう学問で、どんなことを扱っているのかはちゃんと知らなかったのだ。しかし、関連本を読んでみると、「まさにこれ知りたかった・・これについて悩んでたんだよ・・」ということがたくさん書いてある。

たとえば、50年も前(!)に発売された立花隆さんの「思考の技術」には、以下のようなことが書かれてある。

善と悪の区別がはっきりしている場合はいい。しかし現実には、善悪の判断がつきにくいものの方が多い。たとえば、モータリゼーションを進めることは、輸送力の増強、交通の便からいえば善、排気ガスによる公害、事故の激増という面からは悪。(中略)こうした是非のつけにくい問題に、正しい解答を与えてくれるものは、生態学的思考以外にないのである。

無論、あらゆることに明確な答えをくれる訳ではないと思うのだが、途方もない道無き道に、補助線を引いてくれる。そんな期待を抱かせてくれたのが生態学的思考だった。

なんか近しい所にずっといたはずなのに、なんでこれまでちゃんと知れなかったんだろう、と思ったけど、今がそのタイミングだったんだろう。今じゃなければ、きっと対して興味も持っていなかったに違いない。だからいいのだ、今で。

そんなわけで、今は生態学や森林のことを学びながら、少しずつ実践する場を模索していっている。ボランティアも続けていくけど、自分で何か一連のことをやってみたいという浅はかな、でも捨てきれない想いもある。

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1を知ると10、10知ると100知らない世界が目の前に拡がり深まっていく。世界はあまりに多様で、複雑で、関係しあっているのだと好奇心をくすぐられながらも、先人が積み上げてきた膨大な知を目の前に自分の無知と向き合わされ、とるべき最適なアクションが何かがわからず途方に暮れる。

そんな世界において、何かよくすることにどうやったら貢献できるのだろうか。どうやったら次の世代にとてもいい地球や宇宙を残せるのだろうか。ビジョンだけが先走りして、まだまだ具体のプロジェクトが描けているわけではない。焦る気持ちもあるけど、一歩ずつ踏み込んでいくしかない気もする。まだまだ五里霧中という感じだけれど、今年ようやく扉は開かれたのだ。

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この記事は、「書く」を学び合うコミュニティ『sentence』のアドベントカレンダーに参加しつつ書いています。これから24人の素敵な書き手が、「2020年の出会い」をテーマに記事を投稿していきます。楽しみ!



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