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芸術家のオートエスノグラフィー #13 〜社会の中に生きる芸術家〜

 2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源位置とした地震が発生し、東北地方を中心に莫大な被害を受けた。この震災は気象庁により「東北地方太平洋沖地震(以下東日本大震災または震災)」と命名された。地震の規模は、マグニチュード9.0は日本周辺における観測至上最大の地震であった。2024年1月1日に起きた能登半島地震でも多くの尊い命が犠牲になった。地震大国と言われる日本であるが、どのように備えて生きていくかを個人としても考えておかなければならない。

 多くの芸術家は、東日本大震災によって制作コンセプトや社会の中での芸術家の位置付けや意義について考える契機となったといえる。中島にとってこの震災は、芸術家としての以前に、日本に生きる一人の人間として「生」に対する考えが変化していくきっかけとなった。
 林は(2004)、芸術家は、「『社会に生きる一個の人間として自らを表現していくこと』があまりに自然なことであり、たとえ、採算性がなくてもそうしなければならないから社会の中で創作を続ける」[林2004, p.22]と述べている。本稿は、中島が東日本大震災を機に社会とどのように向かい合ったかを記述することで、芸術家の視点から見た震災と、それを表現することを通してどのように社会との接続を試みてきたかを明らかにする。

 2011年3月11日、震災当日の中島は、書道家のKYと、サポートしてくれている仲間のANとともにファミリーレストランでパフォーマンスの打ち合わせをしに行くための移動中であった。集合場所に到着し、1ヶ月後に控える名古屋城での花見客を喜ばせるためのパフォーマンスの計画中、ふとスマートフォンでインターネットニュースを観たときに津波で街が覆われている画像が目に飛び込んできたのである。3人とも画面を観て絶句し、しかし現実とは到底思えないビジュアルに対し、ただ驚いていたと記憶している。ニュースサイトで配信されていた動画を観た時に、その光景が現実であると理解した。桜の花見客に対してのパフォーマンスなど考えている場合じゃないと、3人はすぐに打ち合わせをやめ、不安な気持ちを抱えながら解散した。

 自宅に帰りテレビをつけると、どの局も震災を報道していた。岐阜県は海がない土地であり津波の心配をしたことがないため、テレビに映る光景が信じられなかった。報道が進み被害の実態が明らかになるにつれ、言葉にできない不安を感じていた。同時に、居ても立っても居られない、何かやらなければという感情になったことを記憶している。その翌日、柳ヶ瀬商店街の飲食店の主人M氏から連絡があった。商店街に以前から保管してあった大旗に、「がんばれ東北」と書いてほしいという依頼であった。中島は早速商店街へ行き、アーケードの道路にシートを敷いた上に大旗を固定し、文字を書いた。その大旗はその日から1年間、商店街のアーケードの屋根から吊るすと告げられた。そこでM氏と相談し、商店街内の空いているスペースを利用してチャリティーイベントをおこなうことになった。

 岐阜市の商業の中心であった柳ヶ瀬商店街は、中島にとっては高校時代によく遊びに行った思い出の土地であるが、郊外に大型ショッピングモールが何軒か開業したこともあり、交通が不便である商店街は過疎化し、閉店を余儀なくされる店が相次ぎ、いわゆる「シャッター街」となりつつあった。
 昨今、商店街を取り巻く状況は全国的に厳しいと言われている。「消費者ニーズの多様化をはじめ、郊外立地や駅前、駅なか立地の大型店の出店、他業種小売業との競争激化、インターネット等による商取引の増加などの環境変化に加え、個店経営者の高齢化や後継者難による基礎体力の低下など」[境2014, p.13]がその要因であろう。
 柳ヶ瀬商店街も同様であり、M氏はこの状況に対して街の活性化のために尽力し、街に若者を呼びイベント開催の支援をおこなっている人でもある。中島は2010年に開催した「ぎふのこ祭」以降、度々お世話になり、商店街の歴史や取り巻く人物の話を聞かせてもらっていた。

(岐阜新聞2011,3/20記事)

 大旗に「がんばれ東北」と書き終えてから、中島は作家仲間に声をかけた。その作家達はさらに仲間に声をかけ、8日後の3月19日土曜日に商店街でイベントを開催した。 イベントの内容は、作家約10人が作品を販売した収益を、新聞社を通して義援金として東北へ送るというもので、10時頃から15時頃までおこなった売上金は84,989円であった。 会場に設置した大旗には街を歩く人やイベントに来た人が被災者に対し寄せ書きができるようにしたことで、作品を購入しなくても参加したという思いを持ってもらうことができたと考えている。新聞社からの取材に対し「想像以上に市民の反響があり、やってよかった(岐阜新聞2011,3/20記事)」と答えているように、何の告知もせずにおこなったイベントであったが、大震災の報を受けて何か行動したいという考えは市民も中島も、参加した作家も皆同じであると感じた。

 そして、震災当日に打ち合わせをしていた花見客の前で行うパフォーマンスについて、名古屋城職員から「名古屋城震災復興応援ステージ」と名称を変更し予定通りパフォーマンスをおこなうようにとの知らせを受け、改めて書道家KYと打ち合わせることになった。テレビや新聞には連日、拡大していく被害の状況を報じ続けている状況において中島は、奮い起つ感情と消極的な感情の2つの感情を抱いていた。その感情とは、初めて目にする自然災害の恐怖と、何の被害もない土地にいて何もすることができない自分に対する苛立ちから、今できることを考え行動を起こしたいという思いである。一方、消極的な感情とは、自分が何をやってもそれは偽善的なものであり、自己満足であるかもしれないという感情であった。

 中島は「自分は芸術家である」という意志のもとで消極的な感情を払拭させ、行動を起こすことを決意した。「藝術というものは、行う者だけでは生まれるものでは決してなく、この行うものにたいする行わせる者および行う材料(心的なもの・物的なもの)があってはじめて創造される」「藝術は人間の所産である。人間がなくては藝術はありえない。」そして「藝術家とは、この現實生活の眞只中にあつてつねに人生を眞實に近づけるべく闘争している人間、そしてその闘争のなかからたえず人間生活を豊富にし向上せしめるところの新しい藝術を創り出す人をいうのである。」[水品1951, p.8]
 また、「芸術は世界の表象(representation)をつくる。その表象は、そこに実在する世界についてであったり、現存しないが、人間が自分自身の選択可能な未来のためにイメージされた世界についてのインスピレーションを与えるものであったりする。リアリティーを構成するものの多くは、金銭、財産、結婚、性的役割、経済システム、政府、そして人種差別のような邪悪なことがらを含みながら、社会的につくられる。芸術に見られる社会的な構造は、こうした社会のリアリティーの表象を含んでいる。」[アーサー2011, p.196]と述べているように、震災における中島の芸術家としての活動は、社会に対する挑戦であり、意思表示であったといえる。

 中島はそれまで、祖母一子の死をきっかけにして死生観を表現していた。それは死を通して生を見つめ、自らがどのように生きていくかという、自己に対しての問いであり、極論をいえば美術表現は自分のためのものであった。しかし大震災を機に、自らの芸術によって社会に対して何かを発信していきたい、芸術にはそのような発信力があるのではないかと考えるようになった。それは、中島にとっての死生観の表現が、死を通して生を見つめるという人間として普遍的なテーマであるがゆえの感情であったといえる。

 何のために芸術家になったのかということを深く考える機会を得た中島は、震災から一ヶ月後の名古屋城におけるパフォーマンスに臨んだ。一見して桜の木に見えるような作品であるが、すべての色、線が文字で成り立っている。一緒におこなった書道家KYと、まず黒の墨を使用し床面に「土」の文字、その次に壁面に「木」、その後「がんばれ」「起きあがれ」「歩」「絆」「今ここから」「つながる」などの文字を幹や枝に見立てて書き、その後黄緑色、緑色、ピンク色で桜の芽や花びらに見立てて「生」「生きる」「いのち」「命」「生命」など、被災者が早く助かるように、被害が早くおさまるように、被災地の人々の生命への思いを込めて書き、まるで桜が満開になっているように見えるような表象にし、完成させた。周りに展示した作品には「日 止まない雨はない」「月 明けない夜はない」と書いた。大勢の花見客が足を止めてパフォーマンスに見入ってくれている様子(写真3-3-2)が、書いている最中からわかり意気に感じることができた。中島にとってこの作品は重要なものとなった。水品(1951)が述べるように、芸術家の表現は鑑賞者がいて成り立つものであり、芸術家とは、日々の生活の中から湧き起こる思いを、自らの表現をもって鑑賞者に伝える人間であるのだと、この時確信したのである。

 名古屋城でのパフォーマンス以降、中島は震災被害者への追悼作品を制作することになった。美術館やギャラリーではなく、大衆が集う場所においてミュージシャンや芸術家との協働を通して作品発表をすることを通して、より多くの鑑賞者とともに創造することを心がけた。ジャンルは違っていても、表現者として同じ思いを持っている者が多く、震災を通して仲間が増えたと考えている。

(岐阜新聞2012,3/6記事)

 そして、震災から1年後の2012年3月、中島は柳ヶ瀬商店街の店主からの依頼もあり、被災地に赴くことになった。M氏は、人が集い、賑わう場所は街の商店街であるという持論を持ち、テレビのニュース番組に取り上げられた宮城県「南三陸さんさん商店街(南三陸志津川福興名店街)」への支援を申し出ていた。中島は震災以降、現地に赴き自分の目で見て、そこから何を表現するべきかを考えたいと常に考えていた。M氏との思惑が一致したことで支援を受け、2012年3月3日から5日まで宮城県に訪れることになった。

 2011年3月11日、日本は多くの命を失い、老いでも病でもなく失われる命の無常さと向き合うことになった。震災からちょうど1年後に宮城県に訪れた際、灰雪が降る中、喪服姿の人達が、津波で流されて更地になった場所に献花し手を合わせる姿を多く目にした。至る所に高さ7-8mぐらいの瓦礫の山があり、訪れた先々で目を覆うほどの数え切れない「生」の「痕跡」を目のあたりにした。3日間の滞在中、車に積んでおいた画材を使うことはなかった。
 自分が美術作家である前に、1人の人間であると実感した。
 生きたい、と。 (個展「煙」掲示文2014)

 これは中島が被災地を訪れた後の個展に掲示した文章からの抜粋である。中島は芸術家として被災地をどのように見て、何を表現するべきかを抽出したいと考えていたが、湧き起こった感情は一人の人間としてのものであり、芸術家としてその場で何かを表現することはなかった。瓦礫を前にして呆然とし、合掌することしかできなかった中島は、南三陸さんさん商店街に訪れ代表者に届け物を渡した後、西本願寺の仙台別院に訪れた。そこで震災の状況や、ボランティア情報を聞いたが、実際に瓦礫撤去の現場に行くためには登録し、さらに順番待ちがあり日にちを指定されるということを知り、無知であった中島は結局何をするわけでなく、岐阜に帰ることになった。
 さらに、中島は被災地に行く直前、知り合いを通して宮城県にある大学の職員に連絡をし、自分は芸術家で、被災地に行くのだが何か自分にできることはないかと尋ねていた。そこでの返答は、「あなたが有名な芸術家であれば被災者は喜ぶかもしれませんが。今はまだ瓦礫の撤去に追われている状態。」というものであった。悔しくも、自分の無力さを感じながら帰路に着いたことを記憶している。ただ祈ることしかできなかった中島は、震災から1年後の2012年3月11日に柳ヶ瀬商店街にておこなったパフォーマンスで「この言葉しか出てこなかった」と、大旗に「祈」と書いた。

 さらに3年後の2013年3月11日は、過去2年に制作した大旗を両脇に掲示し、その間にパネルを固定し、絵を描いた。キャンドルアーティストのTとの協働で、この時の鑑賞者は写真家のSDと、数人の通行人のみであった。中島は芸術家である前に一人の人間であると強く考えたからこそ、広く一般の人々と思いを共有するための手段として美術表現をしていきたいと考えていた一方で、共有は強制的なものではないと自覚していた。「有名ではないから喜ばれない」との言葉が頭の中から離れることはなかった。

 2014年、中島は美術作品において書道の書き損じなどを使用し「痕跡」をキーワードに制作していた。新聞紙を素材としたコラージュ作品制作をすることを思いついた。その新聞紙とは大震災の記事が書かれた新聞紙である。震災の翌日2011年3月12日からの当時の新聞を使用したいと考え、中島は岐阜に本社、支社をもつ新聞社A、Bにアポイントを取り訪れた。A社に対して使用目的を伝えたところ、著作権を扱う担当部局の課長が、記事の出典元である共同通信社に問い合わせるなど、親切に対応された。B社では窓口の人から、ここにはないから自分で本社に電話して問い合わせてくださいとの返答を受けた。
 中島にとってはB社の対応に憤りを感じずにはいられなかった。そこでまた「自分が有名な芸術家であれば対応が変わったのではないか」と考えることになった。結局いずれの新聞社も4年経過した新聞紙の在庫を抱えておらず、図書館でコピーをしてA社の新聞記事を使用することになった。中島は東日本大震災以降、「芸術家として有名になりたい。」と周囲に話していた。

 中島にとって東日本大震災は、芸術家としての使命のようなものに突き動かされた原動力となったとともに、芸術の無力さも感じた。芸術家は誰もと同じ人間として社会の中で生き、感じ、それぞれの視点によってそれを表象し、人々に伝えていく役割があると考えていた。
 しかしそれとは裏腹に、現代の情報化社会において人々は、自らの意思で多様な中から情報を選び、解釈していくことができる。芸術作品はその情報の中のひとつでしかない。芸術家は社会と接続するために、様々な葛藤を抱えつつも、自己の表現を探求していかなければならない。また、震災により芸術家のコミュニティーが広がったといえる。様々なジャンルの芸術家との協働により、互いを尊重し、表現を通してコミュニケーションをとることができた。そこには、震災に対する共通の思いが存在し、そのうえでの表現であったため、普段は個別に活動している芸術家どうしの横のつながりを形成する機会となったといえる。

<参考文献>

  • アーサー・D・エフランド著、ふじえみつる監訳(2011)『美術と知能と感性〜認知論からの美術教育への提言〜』日本文教出版

  • 境新一(2014)『日本の商店街活性化に関する課題と展望:東京都世田谷区を中心にタウンマネジメントの視点からの考察』成城大學経済研究(205)pp.13-54

  • 林容子(2004)『進化するアートマネジメント』有限会社レイライン

  • 水品春樹(1951)『演劇ノート』世紀書房

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