上野千鶴子氏の祝辞に思う

仕事柄なのか、「東京大学入学式における上野千鶴子さんの祝辞についてどう思いますか?」と聞かれる。「東京大学においても男女差別があり、全学生に対して2割しか女性がいない」云々のアレである。今年のこの祝辞は話題を呼び、某コメンテーターは「希望にあふれた入学生に対する冒涜だ」と述べ、某芸人は「これこそが人生だ」と絶賛した。果たしてどちらが正しいのか。
正しい・正しくないの議論を私は好まない。ただ、確実に言えるのは、このコメンテーターも芸人も、大学で学んでこなかったor大学で学ぶにふさわしい人間ではなかったということだ。
東京大学の入学式では、毎年サプライズゲストが登場する。若田光一さんしかり、ロバート・キャンベルさんしかり。どこかの大学のようにインハンドの主演が登場したり、得体のしれない絵本作家が出てきたりしないあたりが東大らしい。なぜこんな固い祝辞を東大は続けるのか。
思うに、入学生に「劇薬」を与えるためではないだろうか。高校生まででは答えのある問いに対して、正しいとされる答えを回答するのが得意だった学生たち。彼らに対して、大学らしい最初の課題を課そうと考えているのではないだろうか。
これは私の解釈だが、例えば上野千鶴子さんの演説を「そうなのか!よし、男女差別をなくそう!」と考えるような人間は、たぶん4年間を無為に過ごすのだと思う。「本当かな…」と考える人間も少々惜しい。「本当かな?データを調べてみよう」までできて半人前。4年間を過ごす中で「データ上はこうだから(だけど)、私はこう思う」という意見提示までができて、初めて大学に通った意義があるといえるのではないか。
大学で学ぶということは、そういうことではないか。一つの分野について詳しい専門性を身につけることも大切だ。ただそれならばそういうものに特化した専門学校にでも行けばいいのである。文理問わずさまざまなことを見聞きし、自分の考えを作り、妥当性を探る。そういうことをひたすら積み重ねる場が大学ではないのか。
私自身はというと、2010年での入学式の祝辞は緒方貞子氏だった。緒方氏の祝辞で忘れられない一節がある。
「皆さんには在学期間を通じて多様性に触れる機会を最大限に活用していただきたいと思います。東京大学には日本全国から集まる約2万5000人の学生に加え、2500人を超える 留学生が学んでいると聞いています。これは、皆さんがさまざ まな歴史、文化、価値観を持つ多様な人々と接し、理解を深め ることができる大きなチャンスです。皆さんには是非とも出身地や国籍を問わず多くの人々と交流し、議論していただきたい、 そして、世界には多様な人々が生きていること、お互いを理解し、尊重し合うことによって社会を変え得る大きな力を生み出 せることを実感していただきたいと思います。」
私の4年間はといえば、おそらくこの問いを考え続けてきた4年間だった。自分の主義主張にこだわったり、身勝手な論を展開したり、表面的な評価や判断しかしなかったりする知人に恵まれた。一方ではもちろん、意外な特技や技術をみせてくれたり、自分ができないような経験をいきいきと語ってくれたりと、華やかではないが深い付き合いを今でもしている友人にも恵まれた。どちらにしても、ふと「大学で学ぶ」ということはどういうことなのか、と考えずにはいられなかった。
東大で学ぶ、とはそういうことである。大学に進学する、とはそういうことである。さて、「そうなのか!頑張ろう!」と思った生徒諸君。もう一度初めから読み直してください。

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