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「パワーブロガーしもまゆの光と影~noteで人生変わるまで~」

 出会いと出来事は
 夢の種
 福島正伸

13年前、2009年4月、しもまゆとはアメブロ全盛時代、青山華子さんが主催する「わくわくパワーブロガーの会」で出会った。しもまゆは、出版記念トークライブや3人の同姓同名・中村伸一トークライブなど何度も紹介して応援してくれたのに、俺はしもまゆを紹介したことがないことに気づいた。この応援ラジオ、voicyにゲスト出演依頼をした。ライター、コンサル、講師、写真アート作家でもある、しもまゆ。なんと、彼女が右手首を骨折した翌日の収録になった。この骨折をしたことでも気づきがあったという。

彼女のフォローにフォローバックすると俺のnoteのフォロワーや「スキ」が一気に増えた。15年続けたアメブロから2020年4月20日にnoteに切り替えた今、noteのフォローや「スキ」には特別感があって嬉しい。

しもまゆは、2021年5月15日からnoteを毎日更新するようになって、1年でフォロワーは1万人超!月間10万PVを達成した。毎日noteを更新している人はたくさんいるのに、どうして、そんなことができたのか、しもまゆの現在・過去・未来を聞いた。偶然にも、彼女が経営するウェルカムキャット合同会社設立8周年らしい。設立当初はライター業だったが、今はコンサル業の仕事が増えているという。

そんな彼女と連続放送1,001回目から1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい

「しもまゆ」こと下川真由美さんは、山口県防府市出身。小学2年生の頃から絵を描いたり、文章を書くのが好きだった。中学生になると新聞部部長となり学校新聞の連載をしていた。高校生では美術部から文芸部に所属。直木賞作家の伊集院 静を輩出した高校である。自由帳を持ち歩いていて、イラストを描いたり文章を書いたりしていた。高3の時、第一志望を競争率30倍の東京藝大と書いて浪人生となると決めた。一浪して東京造形大学に進学すると、全国から変わり者が集まっていた。しもまゆは、山口県から上京して仕送りが月5万円+奨学金で生活していた苦学生でもあった。バイト先で倒れて1年休学することになった。復学してダンスやパフォーマンスをする身体表現者を写真入りで掲載、記録集をつくり「編集長」って呼ばれていた。今に通じる片鱗が見えた。

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就活はせずに小劇場で3年働き、チラシづくり、お客さんにアンケートを取り、悪い評価もお客様の声として載せた当日パンフレットの作成、情報誌に掲載依頼、出演者募集、受付など、裏方の仕事全般をこなしたが、体を壊して辞めた。劇場の制作の仕事に加えて接客業もやるダブルワーク。半年の未払い給与を残し社長と経理担当が消え会社が倒産したのだ。苦学生だった彼女は、就職しても、なお「家なき子」状態でホームレスになりかけた。

住むところを見つけ、日雇いの仕事もしたが26社受けて印刷会社に転職。この就活中にテレビ取材を受けNHKで放映された。PC未経験でパソコン上でデータを調整・加工・修正するDTPの仕事に携わった。この時の上司、課長のアドバイスを基に、フォトショップによるイラストレーターの使い方などアメブロで「画像加工の便利帳」を書いた。「週刊ダイヤモンド」や総合情報サイト「All About (オールアバウト)」で人気ブロガーとして紹介された。俺と出会った頃、しもまゆは、「超初心者のためのアメブロ作成講座」というブログを書いていたが、会社員だったと初めて知った。それくらい「わくわくパワーブロガーの会」にいるメンバーは変わり者集団で会社員はいないものと思い込んでいたのだ。この時、しもまゆは、ブロガー仲間から人生で初めて「普通の人」と言われたらしい。

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「自分が雲の上のような存在と思っていた人たちが私を温めてくれた」と、彼女は言った。ブロガーの会が、自分にとって心地いい空間になるにつれて、会社では自分の居場所のない生活となっていった。「今日も、あの人、スカートおニューよ」なんて自分のことが書かれているメールが誤送信されてきたり、挨拶も無視、自分だけ食事会に誘われなかったこともあった。「ここは自分の居場所じゃない。本当は熱帯魚なのに、冷たい水槽の中にいるみたい。いない人の悪口を言う集団にはいたくない」、しもまゆの中で違和感はますます大きく膨らんでいった。ブロガーとして知名度がアップして「光が濃くなるほど、影が濃くなる」と実感した。9年間の中で半年間だけ休職した時期、アメブロの新機能がアップされる度に、誰よりも速くわかりやすくブログに書いた。

国の予算が削られて退職勧奨され、いいタイミングで会社都合で退職できた。若手の社員は自己都合で、退職届の提出を求められた中、知人に相談し割増の退職金をもらって有休消化して辞めた。官公庁のマニュアル作成業務など印刷会社に9年間勤めた後、フリーランスとなった。ブログをやっていたことでできた人間関係、おもしろい経営者や著者などのご縁でライターの仕事を得た。2012年、似鳥よーこりんの個人セッションを受けたことも、その後に大きく影響している。ブロガー仲間のほとんどが売りたいサービスや商品があってアメブロを書いていた中、しもまゆは異質な存在だったからだ。

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2012年が人生のターニングポイントだった。当時、ユニクロが、ヒートテックやウルトラライトダウンの売上の10億のうち、5億をユニセフに寄付した。残り5億円の支援先を公募。それが、「Clothes for Smiles」プロジェクト。アメブロ繋がりのかまくらさちこさんが所属するシャンティ国際ボランティア会(SVA)がアジアの発展途上国の子供たちのために図書館をつくる提案をしていた。しもまゆは、Facebook x Twitter x amebloを使って応援した。世界中から応募があり、アメリカの団体と1、2位を争う中、なんと1位通過。この時ほど、SNSが持つ力に感動した事はないという。2015年には、カンボジアに図書館ができたのだ。

「自分でも何か役に立てる発信はないか」と自らに問い、実践した結果、ライターの仕事に繋がった。2013年よりライターとして活動。日経BP社でライター募集していることを知り、日経BPnetにて、藤巻幸大(ふじまき ゆきお)氏を取材・執筆担当することになった。臼井由妃さんの講演実況ツイートからサンプル原稿書き起こしをしていたことが認められて採用されたらしい。参議院議員でもあった藤巻氏は半年後に他界するが、最初のインタビュー記事が藤巻氏であったこと、そして日経BPnetの人気記事ランキングで1位を取った実績は、その後の人間関係を大きく広げるきっかけとなった。今まで営業をしたことがなく、ずっと紹介で仕事を続けられているのだ。

たとえば、noteの機能、どういう記事が「スキ」がつくのか研究し、noteに関する記事を書いていたら、セミナー依頼が来るようになった。やっぱりインプットも大事だがアウトプットはもっと大事だと思う。去年5月から毎日noteを書き始めたのが人生の転機になった。「B to Bの研修講師の人は話すのは得意なのに、書くのが苦手な人が多い」と聞いて、俺も新たな視点が持てた。誰もが自分が思っている以上に輝けるのだ。そこに気づいたことで自分の役割や使命に目覚めライターからコンサル業にシフトしつつある。このラジオ収録前日に手首を骨折したことで、「書けなくてもできるコンサル業をやれって天命」と再認識した。

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「起きたことは全て良いこと」と解釈し、もう一段ステージが上がった、しもまゆの「これから」が楽しみだ。

 人は、無い事ばかり考えて、
 今あることの大事さや価値を見落としてしまう。
 無いものはないので忘れて、今の自分に何があり、
 何ができるか考える時間を作るといい。
 ゲッターズ飯田


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