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はじめまして、中村 みのりです。

今日から好きな時に書いていこうと思います。皆さんお暇な時にでも読んでみてください。上から目線ですみません。

私は映画監督として大阪で活動しております。北堀江映画塾を通じて関西で活躍されている女優さんと共に短編を日々作り続けています。

平成7年生まれの今年で25歳 女です。

なんで、私が映画監督になったかというと、、、みたいな文章をここに書いてもおもろないな〜、と思ったんで、25年間どうゆう風に生きてきたのかをここに書いたらええんとちゃうか?と思ってます。

そんなに変わったことはありませんが書いていきます。

中村みのり 誕生秘話 始まり始まり(別に秘密にしてない)

奈良県天理市 よろず病院 1995/11/14 21:33にこの世に生まれてきました。中村みのりと言う名前をいただき生まれた時のことは全く覚えていませんが、保育所に預けられていたことの記憶はおぼろげですがあります。台風で屋根が飛ばされたことによってとっても綺麗な保育所に生まれ変わったことは、はっきり覚えてます 笑

私は、母と何かにつけて離れたくなかったのを強く覚えてます。とりあえず、執着していてあの頃の私にとって両親が私の全てやったんやろうな。それがなんでとかは全くわからないけど、そうゆう気持ちが強くて「私は必要な人間なのか?」なんてことを4〜5歳で考えてたのは覚えてる。でも、時計も読めないめちゃくちゃなアホです。

小学生に上がり 私が絵を描いていると何人かに「何を描いているの?これは誰?」と凄い勢いで聞かれて私の絵やねんからほっといてと思ったことは覚えている。それからは、理由は今でもわからないけど、寂しさ?虚しさ?でなぜか学校には行けなかった。行きたくないわけではなくて行きたかったけど、行けなかった。不安とか怖さとか寂しさでいっぱいになって学校に行くと1人で何もかもを上手くこなさないと行けないような気がしていたのかも。今、考えたらその時の自分は何がなんだかわからなかったんだと思う。ので、ずーーっと家にいてました。母の勤め先に遊びに行ったりアニメを見たり。

小学校2年生になってから大阪に引っ越しました。奈良の小学校よりは大阪の小学校の方がまだ馴染めました。ですが、小学校には1人では行けませんでした。母は仕事を辞めて専業主婦になったので、母は毎日私と一緒に小学校に行ってくれました。母がいつも一緒にいてくれているだけで心が強くなりました。どんなことでも乗り越えれる気持ちになりました。今この歳になって母の凄さが分かります。毎日小学校に来てくれたこと。この出来事を思い出すたびに涙が出てしまいます。いつも私の味方でいてくれて私の意見や想いを尊重して大切にしてくれたから、母のおかげで私は学校に1人で行けるようになりました。私の人生の中でも1番大きい壁だったのかもしれない、学校に行けないことが毎日辛くて仕方なかったから。ママありがとう。でも、まあ 勉強なんて二の次だったので相変わらずズバ抜けてアホです!笑

小学5〜6年からはほぼ1人でいけてたかな?小学6年生の担任の清水先生は毎日真っ赤かな服を着てくる人で、いつも怒ってる顔やのにふざけたことを言う人で面白かったのを覚えてるな〜。心が熱い人ですぐに泣いてた気がする。また、会いたいな。こないだ夢に出てきたな、そういえば!軽く小学生までの話をしました。

次は中学生ぐらいの話を書きたいと思います!

わたしは、今も昔もアホですが。自分のやりたいことや好きなことを信じる気持ちは誰にも負けないし、できないことなんてないって本気で思ってます。本物のアホなんで!笑

ちなみに、1番上の絵は私が描きました!絵を描くのがとても好きです。才能があるないではなく絵が好きです。

では、この辺で次回をお楽しみに!

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