イェダラスカレイツァ201903

ひとふで小説|2-イェダラスカレイツァ:バルヴァリデ[II]


前章:[I]

II


 二人が湯浴みする頃には陽がずいぶんと傾き、鮮やかに夕焼けしていた。風のない西の空で橙色に焼けた雲が有終の美をじっと待っている。冷えて澄んだ空気に混じって、近くからは虫の声や鳥の羽ばたき、峰々からはこの山に棲む獣たちの咆哮が聴こえてきた。地面に埋め込むようにして作った小さな湯場の周りには石畳が張られており、隙間の土からは緑の雑草がいくらか生えていたが、もう一息冷え込む頃には黄色く枯れてしまうことだろう。
 湯場を囲う石垣の脇には、葦立草を干して編んだ垢落としの強布が数十枚積み上げられていた。
「これは、ずいぶん沢山の強布がありますね。ターレデ様が編んだものですか?」
「ええ。こうした物作りは、思い出や空想に耽りながら一人で楽しめますから、性に合います。村の湯場で買い取っていただけば少しばかりのお金にもなりますし。…それに、婚儀も果たせず子も無く親を手伝う用事もない独りの身、何かしていなければ縁談の世話ばかり焼かれてしまいますわ。作業をしていれば話し掛けにくくなるかしら?と思って、黙々と編んでおりますの」
 ターレデは困った顔で笑って見せた。
 ヴァンダレは静かに頷いて、左手で湯を掬い自らの肩を撫でた。肩を伝った湯は、鎖骨に溜まってからヴァンダレの呼吸に合わせて胸板を滑り、もといた仄温かい大海に戻っていく。
「よく分かります。みな、よかれと思って私たちに旅も孤独も与えたがらない」
 ヴァンダレは冴えた空気の遠い向こうに、淡く連なる山岳を見渡すようにして言った。高貴な身分には高貴な身分の、何か計り知れない重圧があるのかもしれなかった。
「ターレデ様、この湯場はどこで体を洗えば良いですか?これまで渡り歩いた町や村では湯場ごとに決まりがあり、湯の中で洗うほうが良いとされるところ、洗ってもよしとされるところ、決して湯の中で洗ってはならぬから湯の外で行うべしと定められたところ、湯を棄てる日だけは思う存分洗ってもよいとされるところ、様々でしたが…」
「ええ、どうぞ、どうぞ。お湯から出たら体が冷めてしまいますから、お湯がいたむことなど気になさらないでください。我が家では昼間のあたたかいうちに湯場から砂や垢をさらって、いくらかをそのまま残し、いくらかは新しい水を引いていますから、汚れても構いませんのよ」
「そうですか、とてもありがたい。汚れを浚うときは私にもお手伝いさせてくださいね」

 それ、が起きたのは会話からほんの一瞬の間を置いた時で、突如ヴァンダレは息を吸い込むと湯に潜った。そうして慌ただしく左手で髪の毛を搔き回し、ざぶっ、と戻ってきた。ぱぁっ、と息をついてすぐ、
「はは」
 と笑い、手櫛で髪を掻き上げた。
「まあ、ヴァンダレ様、言ってくださいな。せっかく美しい色をした御髪、そんな洗い方をして…。私が整えますのに。湯の中に潜るのは苦しいでしょう。大丈夫なのですか?」
「いいえ、いつもこうしていますから。それに、一人で洗えるようにしておかなければ。いつか我が家に戻った時に、腕は失くす、身の世話もできぬ、一体何をしに出て行ったのかと叱られてしまいます。私たちが自ら求めて旅に出るというのは、つまらぬ伝統を重んじる家にとって、そういうことです。私が男児ならば失くした片腕が世界に尽くした名誉の証となって、従者が増えるのでしょうが…」
 ターレデの育った村では婚姻こそ強く勧められはするものの女も山に潜み獣を狩り男も煮炊きと子守りをし皆分け隔てなく各々の用を持っていたので、高貴な伝統はよく分からなかったが、大きな城下町のようなところではきっと厳格な身分や役割があるのかもしれない。お姫様のような暮らしや騎士の居る街に憧れたことはあったが、案外高貴な生まれというのは楽ができる人生ではないものかと歳を重ねた今は思う。
「ヴァンダレ様、我が家につまらぬ伝統はございません。その腕ではお背中も洗い難いことでしょう。失礼いたしますわ」
「忝ない…」
 ターレデは新品の強布に手を伸ばすとヴァンダレの背中を、少し揉み込むように拭った。旅に酷使された体は強張り、筋という筋が張り詰めたように思える。筋肉で緩やかに起伏する背中を覆う肌には湿度と透明感こそあったが、ところどころ地這虫のように細長く膨れている。それだけでなく、地の肌色と異なる色の線が真っ直ぐと入っていたり、いびつに抉られたような跡があったり、小さく凹んだ穴もある。ところどころ紫や黄色に内出血しているのも顕になっていた。ヴァンダレが少し屈むと骨がごつごつと姿を現し、反れば所在を隠した。強布ごしに感じる背筋の存在を確かめると背骨一つ一つの段落を同じ拍子で揉み込んで擦りながら、内出血の部分だけを避け、腰のあたりまでを二往復した。湯の中で一擦りごとに薄っすらと舞う垢が、旅の長さを訴えた。
 ヴァンダレはターレデが指を押し込むと息を飲み、指圧を緩めると溜息を放つ。
 骨までは同じ様式のはずだというのにどうして人には剣の得手不得手や鍛冶の得手不得手があるのだろう、どうして修練でこんなにも体つきが変わってくるのだろう。
 取り留めもなく考えながら、ターレデは三往復目を往く。
「……………どうでもよくなって、しまいますね。…鍛錬も、正しいことも。…世界が荒廃しつつある発端など私と関係ないのだから、こうして穏やかに嬉しいことばかりして過ごしたいと、時々願ってしまいます。世界がこんなふうだから仕方なく旅を続けているだけで、平和ならば何もしたくはないのです。のんびりと、あたたかい場所で、心地の良い自分に勝てはしない。………瞬きと、意識を失ってしまうほどどうしても眠らねば居られない時間以外に、目を閉じることが出来たのは久し振りかもしれません」
 瞼を伏せたヴァンダレは自前の暗闇を愉しみながら俯き気味に言った。ターレデがヴァンダレの背中を押すたび、ヴァンダレの背とターレデの腹の間にある湯が盛り上がっては外へと押し流されていく。
「お疲れでしょう。旅をする方は、一つずつ世界を背負っておいでです。あなたが私の母や娘や妻や姉妹なら、背中を流すたびにきっと誇らしくて抱きしめていますわ」
「世界だなんて、そんなに大きなもの、私には負えません」
「いいえ、命を落とせばあなたの生きた世界はそれまでですもの。それは、世界を背負っているのとまったく同じことですわ」
「詩人のようなことを言う」
「かれらはもっと甘美なうたにしてしまうんじゃないかしら。あなたが死すともあなたの魂はなんとか〜、って。あなたがどうなろうと、あなたの本懐がどうであろうと、吟遊詩人や旅の話芸者にしてみれば自分の感性に寄り添った詩が自分に美しくて、あわよくば聴衆が集まれば、どうとだっていいのよ」
 ターレデが芸術を突き放すと、ヴァンダレは、
「私が無残に死ねば悲愴の種になるから…、詩人や話芸者だけでなく、人々は…私の死を悼みながらも、どこか心を豊かにする糧として愉しむかもしれませんね。世に尽くせば尽くすほど、痛々しければ、痛々しいほど。腕を片方落としてから特に、人は私を劇的な存在として扱うようになりました」
 と、静かに微笑んだ。一厘の愉しさもない、諦めのような微笑みだった。
「ターレデ様、あなたが私の家族ならば誇って抱きしめたいとまで思ってくださるのは、私が華奢で隻腕の女剣士だからですか?私が、悲壮に見えるからですか?」
「いいえ。洗ってみたらヴァンダレ様の背中がずいぶん凝っていたので、これは酷くお疲れになることをなさってきたのだろうなと思って、労いたくなっただけですわ。父たちにしてきたことと同じです」

 ターレデは、ヴァンダレの肩の向こうに淡く見える山の稜線を真剣に見つめてみた。どうでもよく眺めれば、それは“山”にしか見えなかったが、気の無い遠目には分からなくとも無数の樹木が鬱蒼と茂っているはずで、ヴァンダレは、その根本に腰を下ろしたのかもしれなかった。木々はヴァンダレの身を隠すことに役立つ反面、外敵の姿も隠すだろう。気の休まる時間はあるのだろうか。
 大樹の根の硬さを思い起こしてみる。長く座れば耐え切れぬはずの凹凸があり、樹皮はところどころ捲れて、不用意に動けば服や肌に噛み付くのだろう。小枝が折れた跡が刺さるのかもしれない。
 土は木より柔らかいかもしれないが、布や綿より柔らかく暖かいわけがない。なだらかに曲線する体躯を優しく包むわけもなかった。どこで眠るのだろう。穴でも掘るのか、自然の洞穴でも探すのか。 枕にするものはあるのか、寒い日に巻ける布はあるのか、眠る時に靴を脱ぐことはできるのだろうか。 入り組んで大きく広がった枝葉は日光を遮るには充分で、雨を遮るには不足している。
 雲が山頂にかかっているのが見えた。雨の日は、嵐の日は、雪の日は、どうするのだろう。
 食糧は必ず持っているのだろうか。仮に傷んだものを食べてしまって、腹を壊したら野山で療養できるものなのか。そもそも健康で日常的な排泄はどうしているのか、経血は受け止めきれるのか。そんな中に於いても、人魔や魔物からの襲撃に備える旅路は、この人に何を齎すのか。人間としての一度きりの命を賭す価値を、この旅のどこに見出しているのだろう。世界は、自らの命を差し出すほど、重いだろうか。
 ウェノ=タイト共和国軍に招聘された父たちには、五名の護衛がついた。シン・バッシ王国で防具を作っていた間も、かれらの作る鎧や兜を切願する騎士団から、往路には四名、復路にも三名の遣いが出された。護衛も遣いの騎士団員も、一名は全員分の寝袋を背負っており、もう一名は火を熾す道具と食糧を背負って、その上で武器を携えていた。山の麓の村に馬車を駐めてあると言い、荷物を持たぬ者は即座に戦える身支度を整えていた。だから父たちは、少なくとも土の上で眠ることはなかったはずだし、座った姿で眠ることもなかったはずだ。交代しながら眠っただろうし、そもそも二人で招かれているのだから、心細い道中の話し相手だって必ず居た。それも、人生で最も心を許している伴侶、という。そうだとしても、ターレデは世のために旅路を拒まない父たちへの敬意を忘れたことはなかった。
 伯母である猟師のサラには相棒の山犬と大猫が居るし、村落のある連峰から外に出ることはないと聞くから、健康ならば数日歩けば帰宅が叶うらしい。何より、山を熟知している手練れの猟師に対して、不安に思うのも差し出がましいのだ。だとしてもやはり、無事に戻ってくるよう、毎日の祈りを欠かさずには居られない。
 この村に至るまでの旅路を「慣れない山」と呼んだヴァンダレは、山を降りてすぐ故郷がある人ではないのだろう。きっと、遠くから来たのだ。遠くの、きっと、華やかな街の、高貴な屋敷から。そんな人が、心細い山の闇夜を、たった独りで耐えるには、どうしたのだろう。

 指先に誠意を集めるようにして、ターレデはヴァンダレの凝った体に繊細で確かな力をかけた。容量の割に端々が厳つい体の主が辿ったかもしれない旅路に想いを馳せてみたが、経験のないことは想像を絶するもの、という漠然とした印象を乗り越えることができず、想像をやめて、いつか親しくなったら聞いてみることにした。


つづく
(小出しにします。)

「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
 元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
 珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)