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地震とイタリアの話(1話) 1995/1/17

気がつくと、僕は公衆電話で順番を待っている長い列の人々を見て声を出して笑っていた。

1月17日は思い出すのが怖くて、毎年テレビのニュースを見ないようにしてきた。
30年も封印してきた事を、最近少し話せるようになってきたので書こうと思う。

僕がイタリアに行こうと思ったのは、阪神大震災がきっかけだ。
当時、兵庫県西宮市に住んでいた。
早朝ドスンという突然の大きな揺れで目が覚めた。
部屋にぶらさがっていた電気の器具が振り子のように左右に揺れ、大きな音を立てて天井に何回も当たった。キングサイズの重いベッドが部屋の中を動き回りこれは大きな地震だと思った。あわてて外に出ると、我が家はなんとか建っていたが、近所の家がたくさん倒れていた。少し明るくなった頃、2階の窓のから普段見えないはずの国道が倒壊した家々の屋根の残骸の先に見えた。

僕はジャーナリズムの写真学校を出ていたので、状況を記録するためにすぐにカメラを持って自転車に乗り大きな国道の方に向かった。
家や木がぐちゃぐちゃになって道の方に倒れ、地面は大きくうねり、陥没しアスファルトが左右から圧迫されて三角の山になっていた。国道沿いの大きなカーショップは2階部分が崩れ落ちて1階に陳列されていた車が押し潰されていた。頭から血を流している男性、地面に座り込んだまま動かない人、ガス臭い道を行くと高速の高架が折れてこちら側に倒れ、本来車が走る道路の部分が大きな坂のように斜めになっていた。まさかこんな大きな建物が倒れていることが信じられず、僕はその場に立ち尽くしてしばらく何も考えられなくなっていた。写真を撮るたびに目の前で起こっていることが凄すぎて気分が高揚していった。そのまま山手のほうに進むと、道沿いの家やマンションは爆弾でも落ちたかのようにぐしゃぐしゃに壊れていた。3人の家族が叫びながら瓦礫を素手で掘っていた。よく見ると指先が血で真っ赤になっていた。僕は涙が止まらず泣きながらシャッターを切った。そして壮絶な風景をたくさん撮った。家に帰る途中、腕章をつけた新聞記者がフィルムが余ってないか?とカメラを持っていた僕に話しかけてきた。惨状に絶望し僕は彼に手持ちのフィルムを全部渡し家に帰った。

地震直後にはっきりとした記憶があるのはそこまでだ。それから数日間は放心状態で水を運んだりボランティアのようなことをしていたように思う。

早朝の真っ暗な闇の中、瓦礫の下から聞こえてきた助けてくださいという細い声、女の子の血で真っ赤になった指先、そして、頻繁に地面を這ってくる小さな余震が次の大きな地震になるのではないかという恐怖ですっかり眠れなくなっていた。

ある日、家の前の公衆電話に並んでいる人々を見たときに、なぜか急におかしくなって笑いが止まらなくなった。その頃から急に笑ったり悲しくなったり精神がおかしくなってきていた。

ある日の夜中にうつらうつらしていたら
「いますぐにここから逃げろ!」
というメッセージのようなようなものが聞こえてきた。

親戚の友人のお嬢さんがイタリアにいるということを聞き、その人を頼って急遽イタリアに行くことになった。ずいぶん風呂に入っていないボサボサの髪の毛状態で電車に乗り、大阪の大使館にビザを取りに行った。こんな時に小綺麗なスーツを着た人々が普通に働いていたことに驚いた。事情を話すと同情した大使館の方が、通常2週間かかりますが1週間後に取りに来てくださいと言ってくれた。
帰り道、偶然に銭湯を見つけた時は心が躍った。西宮市はまだ水が出ず、未だ風呂を沸かせない、被災した友人たちには悪かったが我慢できずこっそり暖簾をくぐった。身なりが汚なすぎて断られるかも知れないと神戸で被災した事を番台の人に告げると、料金はいらないとタオルも渡してくれた。水を流しながらお湯で顔を洗える!2週間ぶりの温かい湯船に浸かっていると大阪は神戸と違い何もかもが普段通りだと思った。
3月になるとすぐにカメラと辞書と下着を持って僕は単身イタリアに渡った。
(続く)

写真:画像提供 神戸市


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