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やめることや諦めることだって一つの勇気だ

2ヶ月。誰とも会わない生活を始めてからそれだけ過ぎた。僕はこの機会に、と毎日三食きっちり自分でご飯を作って食べるようにしていた。いろんなレシピも覚えた。でも、ここ2週間ほどはあまりご飯を作っていない。決して強がりではなく、いやもしかすると強がりなのかもしれないけれど、やろうと思えばできるものを敢えてやらないようにしているのだ。なんだかこう言うと愛煙家の禁煙をしない言い訳みたいだ。けれど僕の中では、これは自分の意志でやらないようにしていること、と思っている。タイミングを決めて出来合いのお惣菜にかえるようにする。冷凍食品を買う。思い切ってデリバリーしてみる。代えられるものはいくらでもある。自炊が続かなかったんじゃない。僕は自ら「やめた」のだ。

あまり人生論みたいなものは語りたくないけれど、僕の中で自分が納得のいく生き方をするために大事だと思っている行動が3つある。ひとつめは挑戦すること。ふたつめは持続すること。そしてみっつめが、やめること。なんとなくこの世の中ではひとつめとふたつめばかりが持て囃される、そんな気がする。勉強でもスポーツでも、やめたことによって褒められた人を見たことがない。やめるということだけがネガティブな捉えられ方をする。だけど、やめるというのはこの中である意味一番難しくて、一番前向きで、それゆえに一番大事なことだ。

生活をしていて、「あ、そろそろキャパるな」と感じるときがある。体力的な限界だったり時間的な限界だったりいろいろ形をかえて現れるものの、多かれ少なかれ誰もが許容範囲を持っている。みんなその中でやりくりをさせられている。やることを増やすのは、ありがちな例えだけれど、コップに水を静かに注いでいくようなものだ。少しずつ水が溜まっていき、最後の方は表面張力で意外と保っているのだけれど、ある瞬間になるとそれが一気に溢れ出す。
基本的にはそれは人の心と連動しているから簡単に溢れちゃいけないもので、かといって表面張力でギリギリ保っている状態ならそれで問題ないかというとそれもやっぱり精神的には良くない。ただ、困ったのは、器がいっぱいになったときになってようやく器の大きさを知ることができるわけで、僕が「あ、そろそろ……」と気づくのは大体もう手遅れになりはじめているときなのだ。

そうならないために、僕はやめたい。何かを諦めていきたい。もしかするともう手に入らないかもしれない。それでも、もし必要ならいつかまた地を這ってでも拾う覚悟で、今自分が手に抱えているものをぽんと落っことしてみたい。どんなものでもいい。大小も問わない。それは簡単な自炊だったり、毎朝のルーティンだったり、義務化してしまった習い事だったりする。もしくは、切るに切れない人間関係だったり、幼い頃の淡く小さな夢だったりもする。
やめるって本当に大変なことだ。今まで自分が持っていた何かを失うことには常に恐怖がついてまわる。ただ、僕は、自分が得た沢山の権利をいつしか義務だと勘違いして、そのまま自分の器の大きさを知れた安堵に殺されたくないのだ。それもまた僕にとっては一つの恐怖だ。
きっと、挑戦しないことの先に別の何かを挑戦することがある。持続しないことの先にも別の何かを持続することがある。全ての行動と出来事は繋がって絡まっていて、何もやめることだけが不幸に直結しているわけではない。だから僕はこれを言い訳だなんて思わない。一つの勇気で、賭けで、幸せへの渇望だと、信じている。

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